1. 浮気現場
アンジェリカは現在、修羅場に遭遇している。
そういう言い方をするとまるで他人事みたいだが、絶賛渦中の人である。
何しろ、目の前で豊満な美女の腰を抱き寄せている伊達男は、親が決めた彼女の婚約者なのだ。さきほどまでは、濃厚な口づけも交わしていた。
そんな許されざる逢瀬の場に、アンジェリカはどこからともなく姿を現した。恋人たちはまだ何が起きたのか理解しきれていないようで、豆鉄砲をくらった鳩のような間抜けな顔をさらして彼女を見つめ返している。
このような状況下において、一般的な乙女であればおそらく心に大きな衝撃を受けて逃げ出すか、あるいは涙ながらに婚約者をなじるかしそうなものだが、アンジェリカはどちらもしなかった。どうやら彼女は、あまり一般的な乙女ではなかったらしい。
彼女はつかつかと婚約者に歩み寄ると「歯を食いしばりなさい」と冷ややかに命じ、身体をひねって反動をつけた上で力いっぱい彼の頬を平手打ちにした。そして彼女の平手打ちに見事に吹っ飛ばされて地面に倒れ込んでいる婚約者に向かって、こう言い捨てたのだ。
「こんな浮気者、こっちから婚約破棄してやるわ! 二度と顔を見せないでちょうだい。さようなら」
そのままアンジェリカはきびすを返し、後ろで控えていた小間使いのミリーに声をかけた。
「ミリー、行くわよ」
「はい、お嬢さま」
ミリーはおよそその場の雰囲気にそぐわぬ明るい声で返事をして、アンジェリカの婚約者とその恋人など一度も視界に入らなかったかのように、澄ました顔であるじの背中を追った。
アンジェリカが浮気現場に遭遇したのは、子猫のせいだ。いや、子猫のおかげ、と言い直したほうがよいかもしれない。あんな男だなんて、結婚する前にわかって本当によかった。
アンジェリカの家は卸問屋を主とした国内有数の商家で、彼女の父は業務提携の強化を狙って、大手の商会に政略結婚の話を持ちかけた。その結果、十六歳のアンジェリカと、十八歳のローマンの婚約が半年ほど前に結ばれたのだった。
ローマンはとても顔立ちが整っている上に人当たりがよいため、アンジェリカの父にはすぐに気に入られたようだ。しかし彼女は、嫌いとまでは言わないが、彼のことがどうも少し苦手だった。彼の言動の端々に、そこはかとない自己陶酔感が見え隠れしている気がしてならないからだ。要するに自分の容姿を鼻にかけている匂いがぷんぷんして、どうにも好きになれない。
さほどよく知らない人のことをそんなふうに決めつけるのは失礼なことだと思い、なるべくその意識を抑えようと努力はしていたものの、彼女の苦手意識は一向に消えなかった。
ローマンはアンジェリカの誕生日などに儀礼的に贈り物を渡しに訪れることはあったが、それ以上の交際はこれといってなかった。アンジェリカにとって、それはむしろありがたいことだった。
今日アンジェリカは、知り合いの家に子猫を届けに行く途中だった。
アンジェリカの家で飼っている猫が子を産んだのだが、そのうち一匹を引き取りたいという父の知り合いがいたため、彼女がお遣いを引き受けたのだ。
手提げかごに子猫を入れると、子猫はかごから頭だけ出して外の景色を眺めている。
おとなしいのでつい油断していたところ、子猫は突然かごから身を乗り出して飛び出してしまった。あわてたアンジェリカは同行していた小間使いのミリーにかごを預け、子猫を追う。
近道をしようと広大な公園を横切っている最中だったため、幸いにして馬車の往来はない。
子猫は、公園の遊歩道わきにある茂みの下の雑草に鼻をつけて、ふんふんと匂いをかいでいた。
アンジェリカは腰をかがめて子猫に近づき、子猫がくしゃみをした隙にさっと抱き上げて、ミリーに預けてあったかごに入れた。
ほっとひと安心して立ち上がろうとしたそのとき、茂みの向こう側から聞き覚えのある声が聞こえた。
ローマンの声だった。
「────ああ、アンジェリカか」
自分の名前が聞こえたため、彼女はいぶかしそうに眉間にしわを寄せた。そして浮かせかけた腰を再びおろし、後ろにいるミリーを振り返って、唇の前に人差し指を立ててみせる。ミリーはあるじの意図を汲んで黙ったままうなずき、数歩さがって道端に控えた。
「あれは親が勝手に決めた婚約者だよ。かけらも女らしさがないし、顔を合わせるのもうんざりだ。早いとこ婚約解消に持ち込みたい」
「あらあら、かわいそうに」
くすくす笑いながら、ちっともかわいそうに思っていないような女の声がローマンと同じ方向から聞こえる。アンジェリカは腰をかがめたままじりじりと場所を移動し、茂みの切れ間からローマンたちのいる方向をのぞき込んだ。
果たしてそこにはローマンが豊満な美女と、いかがわしいとしか表現のしようがないほど身体を密着させていた、というわけだ。
アンジェリカだって、秘めた会話を盗み聞きするのがよいことだなんて思ってはいない。
だけど今はどう考えても非常事態だし、ローマンのほうがもっとずっとたちが悪いし、許されるはずだ。たぶん。
「女のくせに僕と身長が変わらないんだぜ?」
「まあ、ずいぶん長身なかたなのね」
「きみは優しいな。栄養が全部身長に行っちゃったのか、体つきは棒っきれみたいなのさ。せめてきみの十分の一でも色気があればなあ」
「ふふ。ひどいひと」
ローマンの勝手な言い草を聞けば聞くほど、アンジェリカの目は据わっていく。
苦手意識を何とかしようと努力した自分が馬鹿みたいだ。こいつは苦手なままでいい。
アンジェリカは、すっくと立ち上がって両手を腰に当てた。
茂みの陰からいきなり姿を現した彼女に、逢瀬中の恋人たちは最初は迷惑そうな顔を見せた。しかしローマンはすぐに彼女の顔を認識し、驚いたような、少し焦ったような表情に変わった。
それを見て、彼女はほんの少しだけ胸のすく思いがした。だが、まだ足りない。
だから彼女はローマンに渾身の平手打ちをお見舞いして、捨て台詞を吐いてきたのだ。
これでやっと、ムカムカと胸の内につかえていたものが取れた気がした。
アンジェリカはミリーを伴って浮気現場から足早に立ち去り、可及的すみやかに子猫を知人宅に届けたのち、まっすぐに屋敷に戻った。