第85話 大中小子①
夢を、見ている。
彼女は昔から、それを自覚することが多々あった。
だからといって、どうなるものでもない。
夢の内容を変えることも、自分の意志で起きることもできず、ただ、自然と目覚めるまで夢を見続けることしかできないのだから。
のどかな田園風景の中には、アスファルトも電柱も電線もビルも、車もない。
それは現在からみれば百年以上昔、小子が生まれ育った頃の風景を思い起こさせた。
当時はそれが古墳であるとは知らず、ただ小高い丘として認識されていた彼女の実家が管理していた神社周辺とよく似ている。
彼女が住んでいたのは、その神社を模して作られた社だが、大きさだけは似ても似つかない。
天まで届くかのような巨大な鳥居をくぐり、眼下に望む。
働いている民に目を向けた。
それに気づいた皆が働く手を止め、小子に向かって膝を突き、祈りを捧げる。
祈りと賞賛、感謝の気持ちを受け取った彼女は、笑顔を浮かべて手を挙げる。
それだけで皆はさらに沸き立ち、中には感涙にむせび泣く者さえいた。
ああ。
ため息のような嗚咽が漏れる。
この悪夢は、いったい、いつになったら終わるのだろうか。
・
板張りの天井。
それが悪夢から目覚めた合図だ。
全身がびっしょりと汗をかいているのが分かり、肌に張り付いた寝間着の感触に眉を寄せる。
時刻は朝五時。
異世界にいる時から変わらない、いつも通りの起床時間だ。
しかし、違うこともある。この暑さだ。
寝汗をかいているのは、あの悪夢のせいだけでなく、夏の気温のせいもあるのだろう。
どちらにしても、感触としてはあまり心地よいものではない。
気温や湿度を一定に保つことができる札を使えば、快適に過ごすこともできるが、こうした四季の移ろいは異世界には無いものだったため、懐かしさも手伝い敢えて使用しないことにしている。
永久の春の庭。
あの世界を名付けるなら、そう呼ぶのが最もふさわしい。
春は好きだが、なにもずっと春でなくても良いだろうに。
先ほどまで見ていた悪夢の影響か、そんなことを考えてしまう。
頭の切り替えと寝汗を落とす意味でも、早々に布団を上げて、浴室に移動した。
このシャワーというものにも、いつまでたっても慣れない。
蛇口を捻るだけで簡単に適温のお湯が出てくる点もそうだが、それ以上に排水口から流れて行く水がもったいなくて仕方ない。
だから小子はいつも浴槽の中で、栓を入れたままシャワーを浴びることにしている。
貯めたお湯は後ほど洗濯用に再利用だ。
現在は水も食料も潤沢にあるとわかってはいるが、こればかりは前世の頃の癖が抜けない。これは異世界でもそうだった。
高い地位にいる者は、それ相応の振る舞いが求められるのだと、世話役としてついた妙齢の女性から口を酸っぱくして言われ、そのたびにゲンナリしたものだ。
小子が転生した世界は、年がら年中争いが続いている世界なのだからなおのこと。
民衆は少しずつ生活が苦しくなっているという報告も入っていた。
そんな状況では(他人に関わるものならともかく)自分自身に関することなら少しでも節約して他に回すのが当然だ。
そう思って小言を言われても、最後までその姿勢は崩さなかった。
この話を滴にした際、彼女はお前らしいと高らかに笑ったが、その後、まじめな顔で世話役がなぜそんなことを言っていたのか、その理由を教えてくれた。
「贅沢は周りを安心させるためのもの。か」
滴曰く。
戦争中だからこそ、上層部が普段通りの生活をすることで、自分たちの国にはまだまだ余裕があるのだと、虚勢を張って戦意を維持させることも重要な仕事なのだそうだ。
その話を聞いたときは納得して、滴も粗暴に見えても流石は元女王だと感心したものだが、どちらにせよ、こちらの世界に戻ってきた以上、我慢する必要はない。
自分の思うがまま節制に勤めるとしよう。
そんなことを考えている間に汗を流し終え、浴室を出て体を拭く。
このバスタオルなるフワフワの手拭いも贅沢品ではあるが、この感触にはあらがえないため、例外としている。
そうこうしているうちに、新聞が届いた。
ざっと内容を確認するが、相変わらず綴られている単語には意味不明なものが多く、大まかにしか記事内容を把握できない。
とにもかくにも、起こっているのは、小さな事故や政治、役人の汚職や犯人が逃走中の強盗事件の続報などばかりで、異世界帰還者に関わる記事は無さそうだ。
強盗事件だけは一瞬もしかすると。と思ったが犯人の顔も素性も知られているようなので、可能性は低い。
もっとも、そうした異世界帰還者が事件を起こした場合は、記事に載る前に神の手によって世界が書き換えられ、無かったことになるそうだ。
その辻褄合わせのために大規模な書き換えが必要となると思うと、そんなことが起こって欲しくはない。
そこまで考えたところで一人の男の顔が浮かぶ。
釣合秤。
朝日が連れてきた、異世界帰還者にして、異世界での記憶を全て失っている普通の青年。
彼が来てからというもの、異世界転生応援室は少し騒がしくなった。
彼のことを愛している森羅は言わずもがな、当初は距離を置いていた滴も最近ではずいぶんと距離が近くなり、よく雑談をしている。
朝日だけはずっと変わらない距離を保っているが、それも仕方ない。
先日起こった、余所の地域に出向いての異世界送りによって被った損害の補填や謝罪のため、方々へ根回しや謝罪に駆け回っている様子を見るに、怒りを露わにせず一定の距離間を保っているだけで十分優しいといえる。
そして。
自分もまた、少しだけ変わった。
良い方にか悪い方にかは分からないが、彼のおかげで自分のやるべきことが見つかったというべきか。
彼の突飛な発想は、形にするのは非常に大変で、様々な人たちに迷惑をかけることも多いが、同時にそれで救われる人もいる。
それが嬉しい。
疲れること、大変なこと、痛いこと。
本来、人が嫌がる行いも、小子にとっては望んで受け入れるべきものだ。
決して、被虐趣味があるわけではない。
そうして苦しむことこそが、自分にとっての贖罪となる。
あちらの世界で犯した自分の罪をあがなうためには、この世界で罪を償わなくてはならない。
ここは自分にとって巨大な牢獄だ。
いつか、自分の罪が濯がれる日は来るのだろうか。
いや、そんな日は来ない。
だからといって贖罪を止める理由にはなり得ない。
それほどに、自分の罪は重いのだから。
「……ご飯にしよう」
思考を止め、冷蔵庫を開ける。
中には、買いだめした様々な食料がところ狭しと並んでいる。
前世と比べ、この百年でなにが最も変わったかと言われれば、間違いなく食事だと答えるだろう。
考えようによっては、これこそ贅沢そのものだ。
何しろかつて小子が生きた前世も異世界も、どちらも食事情は貧しく、特に前世至っては食料を確保することすら難しかった。
まともに食事も取れずに栄養失調で子供が亡くなったという話もよく聞いたし、自分がそうなっても何の不思議もない生活を続けていた。
それでも彼女は食事に関してだけは、節約や節制をするつもりは無かった。
もちろん過度に贅沢するわけではない。
そんなことをしなくても、戴いている賃金内でも十分に納まる額で手に入れられる食事だけで、前世はもちろん、量だけは十分過ぎるほど用意されていた異世界での食事も霞む。
「この時代の食事は、美味しすぎるから仕方ない」
誰に言い訳するでもなく呟いて、小子は昨日の残り物の肉じゃがを取り出した。




