第75話 海湖沢滴④ ~異世界奇譚~
あー、前はどこまで話したんだったか……
そうそう。世界蛇が動き出したところだな。
海から湧き出すマナを世界蛇が独占し、残ったマナが消費されるまでの期間は普通に過ごせば数年だが、戦いとなったらそうはいかない。
人魚が戦いで消費するマナの量は、日常生活のそれとは比べものにならないからな。
だけど、世界蛇との戦いに入る前に、アタシたちにはやらないといけないことがあった。
本来は海中で溺れて死ぬはずだった運命に逆らい、世界蛇の上に国家を作った元女王。
それと、そいつに着いていったヒトアガリの連中をなんとかしないといけなかった。
海で生きることのできなくなったヒトアガリたちにとって、世界蛇の体は唯一の住処であり、食料でもあった。
世界蛇は巨大過ぎる身体と、バカみたいな回復能力の両方を持っている。
海に入って獲物を狩ることのできなかったヒトアガリにとっては大事な食料源だったのさ。
当然それは世界蛇が生きているからこそ出来る芸当だ。
死んじまえば回復能力なんかなくなり、そのうち肉も腐り果てるからな。
ヒトアガリどもは自分の住処と食料を守るために、全力で戦いを挑んでくる。
そうなるはず、だった。
予想に反して、奴らは戦おうとはしなかったんだ。
いや、完全に無抵抗だった訳じゃない。
世界蛇の体は、島どころか大陸と見まごうばかりの巨体だ。
加えて、ずっと動かずいたせいか、世界蛇の体表には大量の木が生えていた。
長い年月を掛けて太く長く成長した樹木は、鱗と鱗の間に根を張り、世界蛇が動き出した後も、抜けることはなかったんだ。
連中はその木々の中に隠れて、こっちが世界蛇を倒そうとするのを邪魔してきた。
しかもだ。
その樹木は世界蛇がマナを取り込んだ影響で変質していた。こっちの神気ほどじゃないが魔法を弾く性質を持ってやがったせいで、魔法で一網打尽にもできない。
戦う気がなくに逃げ続けるから、見つけるのも面倒でな。
仕方なく、アタシたちはやり方を変えた。
そもそも魔法が使えなくなって、こっちの世界の人間と大差なくなった奴らの妨害工作が成功するのは、ヒトアガリの首領の力が大きかった。
これも前に話したな。
アタシの前に来た転生者。
今考えるとそいつはお前が教えているような、戦略とかの現代知識チートっていうんだっけ? そういうのを知ってたんだろうな。
だからそいつさえ、倒せば──いや殺せば、か。
そうすれば他の連中は統率を失うはず。
アタシたちは目標をヒトアガリの首領に定めた。
場所は思ったより簡単に見つかった。
これも前にも言ったが、アタシは魔法、身体能力ともに並の人魚とは違うからな。
連中のトラップや弓矢も届かない超上空から捜すことができた。
権力者が居る場所として、最も分かりやすいのは、目立つ世界蛇の頭や尻尾だろうが、これまでずっと動かなかったとはいえ生き物だ。
頭や尻尾では少し動いただけで海の中に沈んでしまう。
魔法も使えないヒトアガリが、そんな危険なところに居るはずがない。
つまり最も安全なのは、動きの影響を受けない中央部。
その場所にヒトアガリどもの集落があって、奴もそこにいた。
木が伐採された円形の広場みたいなところに、一人で佇んでたよ。
頭からすっぽりと覆い被さったベールで顔は見えなかったが、いったいどこから拾ってきたのか。それとも上がるときに一緒に国から持ち出したのかは知らねーが、金銀財宝の装飾が施された豪華な服を着た女だった。
いかにも自分が王様ですってな風体でな。アタシからすれば目立つ的みたいなもんだ。
しかも身を隠す木々はなく、周りに護衛もいない。
チャンスだった。
元女王とはいえ、ヒトアガリになった時点で、もう魔法は使えず、空を飛ぶこともできない。
ようは、奴には空からの攻撃に対応する手段がない。
その時点でこっちの勝ちは決まっているようなもんだから、あとは一撃で相手を殺してその場を離れる。
それで終わりだ。
そんなことを考えながら、アタシは手にマナを収束させた。
並の人魚には知覚できない速度で突っ込みながら、同時にアタシはあることを思い出した。
アタシが全盛期、つまりまともに戦えるようになったとき、既に人魚間での争いは最終盤になっていて、あとは敵国の王を討てばそれで終わりって状況だったんだ。
その上、王を殺したら間違いなく、敵国の連中は最後まで戦おうとするのが目に見えていたからな。
あくまで、王の戦闘力を奪うだけに留めて戦いは終わった。
つまり、アタシは人を殺したことがなかった。
そのことに気づいた時には、アタシの腕はそいつの腹を貫いていた。
幸い。と言った方が良いのかな。
アタシの手は凝縮したマナで槍みたいに固まっていたから感触は伝わらなかった。
ただ、押し殺したようなうめき声がすぐ傍から聞こえてきた。
まあ、それでもなにも感じなかった。
初めての人殺しも、正直こんなもんかって感じでな。
さっさと仲間のところに帰還しようとしたんだが、腕を引き抜こうとしたところで、女が動いて引き抜きかけたアタシの腕を掴んだ。
口から溢れ出る血のせいで、くぐもってはいたが、その声には聞き覚えがあった。
言葉を失ったアタシに、女は言ったよ。
自分にはできなかった。でも、貴女なら、貴女なら──きっと。ってな。
こっちの腕を伝ってじわじわ移動して、やがてアタシの手を掴んだ。
その感触は、とても弱々しかった。
フードが落ちて、その下からアタシと同じ塗羽色の髪が見えたんだ。
声と感触、そしてその髪を見て……
記憶のフタが開いた。
そいつは、アタシの母親だった。
自分を生んだ女のことなんて、よく知らなかった。
そもそも、記憶が戻るまでアタシは自分のことを普通の人魚だと思ってたんだ。
人魚は子供を産める年齢になったときにはもうアガリが近いからな。
子供ってのは、アガリまで余裕のある者たちが皆で育てるもので、人魚間において親子って関係に大した意味はないんだよ。
それはアタシ同じ。
物心ついた頃には、母親は傍にいなかった。
人としての記憶が戻った後も、この現代での母親はともかく、異世界での母親のことは思い出しはしなかった。
それでも、そのときのアタシには、何故か確信に近いものがあった。
アタシの手を握る力が、徐々に抜けていく。
代わりにアタシの方からその腕を取った。
何度も呼びかけたが、もう耳も聞こえていなかったみたいでな。
ヒトアガリの首領にして元女王……いやアタシの母親はこっちの声には反応せず、そのまま言葉を重ねた。
私には無理だった。この異世界で生きることは、みんなを、貴女を犠牲にすることは、できなかった。だから、だから──
この異世界。
そう言ったんだ。
アタシが彼女が自分と同じ転生者であることを知ったのはそのときだ。
この世界で生まれ育った貴女なら、きっとできる。
そう言ったきり、母親の手が動くことは、二度となかった。
最後のセリフの意味を理解したはそれからすぐのことでな。
正直、背筋が凍ったよ。




