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鞄と靴をなくしたと言ったら怒られたけれども、僕はしばし満たされていた

作者: 藤薄日

 日が落ち始めた。空はそれまでの薄い青に朱が混ざり始め、まだらな雲が海との境界線を濁していた。波は規則的に返すようで、その下では小さな砂粒が不規則に巻き上がっている。

 ふいに新たな音が入ってきた。

 「じゃあベータ、どっちが長く水に足をつけないでいられるか勝負しよう!」

 十年かそこら生きたくらいの少年がふたり、街から走ってきたようだ。

北の風が吹き始める今頃は残っていた海水浴客もついに諦め、街に近いこの海岸は彼らが来るまで波の音だけを響かせていた。

ふたりは靴と鞄を砂浜に放り、学生服のズボンをまくりながら海の際までやって来た。

 「よし、今日はこの線からな。エイ先行って」

 ベータと呼ばれた少年が枝で砂浜に、海と垂直になる線を引いた。

エイが意気揚々とその線につま先を乗せる。ベータは後ろに並び、二人はまた走り出した。

波打ち際ぎりぎりを海に入らないように走る。

エイは急に止まったりする。駆け引きなのだろう、後ろを走るベータはその度躓きそうになり、笑いながらエイを小突く。

ばしゃりという音がする。

二人はふざけ合いながら海に入ってゆく。指の間に細かな砂の異物感を感じながら。

海岸には音が流れていた。

 

 中学校は退屈であると僕は思う。先生は教壇の前でなにやら熱弁している。

 ここは市内でもそこそこの進学校なので、たぶん今もそんな洗脳を試みているのだろう。

僕がそう推察するそばから進路調査の紙が回ってきた。僕は斜め前の席を見た。そこでは僕の親友ベータがしきりに鼻を掻いている。

 僕の視線に気づいたベータは困った顔で上を向いて上唇を下にひん曲げた。右側の鼻の中に消しゴムが詰まっている。僕は鼻で笑って進路調査の紙に目を落とした。

 「来週の月曜日に回収するからちゃんと書いておけよ」

 先生がタイミングよく喋った。まあ、僕が聞いていなかっただけでずっと喋ってはいたのだ。手元の紙には学籍番号と名前、そして志望校を三つ書く欄があり、他には何もない。

 僕はこの前の学力テストを基にしたそれっぽい学校の名前をさらさらと記入し、きちんとクリアファイルに挟んでから鞄にしまった。

 半分開けられた窓から初秋の風が落ち葉の香りを運んできていた。


 「エイ、お前志望校決めた?」

 「決めたよ。それよりベータ、鼻の消しゴムは取れた?」

 放課後、僕とベータはコンビニで買ったアイスをかじりながら歩いていた。ベータはバニラソフトクリームのワッフルコーンを大きくかみ砕くとため息を吐いた。

 「取れたよ。ちなみにあれ、消しゴムじゃなくてガムだからな」

 「ガァム?」

 僕はびっくりして変な発音をした。私立進学校なのでもちろんガムは禁止されているし、ガムを鼻に詰めるなんて正気の沙汰ではない。

 「べたべたになるじゃんか。なんでまた」

 「ただのガムじゃなくて風船ガムなんだよ。鼻で膨らませられねえかなと思ってさ。面白いだろ?」

 ベータが大真面目な顔でものすごく大きな甘い鼻ちょうちんを膨らませている光景は、なるほどなかなか面白い。笑っている僕を見てベータは得意げな顔をした。

 僕はこのアホが呼吸困難にならなくてよかったなと思った。厳しい校則や画一的な受験戦争のなかで、ベータの無邪気さは若干の安らぎであった。退屈だと思いながらただ流されていく僕には頭より心で動いているような彼を羨ましく感じることがある。

 「なんだよ、変な顔して。まだガム付いてるか?」

 ベータがまた鼻をこすった。

 「付いてない。ねえベータ。今日も海に行こうよ」

 「いいな!行こう行こう」

 鼻から手を離して陽気に万歳をする。僕たちが行こうとしているのは学校から十分ほど歩いたところにある小さな海水浴場だ。小さな、とはいえ観光ガイドブックにも穴場として紹介されるくらいには人の入る海水浴場である。


もう十月も折り返しだ。そろそろ水が冷たくなり波が高くなる時期、他に人の姿は見えない。誰もいない贅沢な海岸で、僕たちが最近はまっているゲームがある。

それは、波打ち際ぎりぎりを水につかないように走るというしょぼいチキンレースだった。ふたり前後に並び、お互いを妨害し合いながら遠くまで走っていく。

子供じみていてバカバカしい遊び。しかし同時に僕たちは境界線を走る不思議な魅力にとりつかれていた。ベータが木の枝で線を引き、ふたりで前ならえをするように並ぶ。

 甲高い虫の音が潮騒と溶けて耳を撫でる。ここに来ると全身の感覚が全て解放されるようだ。何キロも先の家から夕食の匂いまでかげる気がする。

いつのまにか日は地上近くまで傾き、雲の隙間からオレンジ色の光が僕たちの背中に降り注いでいた。引き伸ばされた二人分の影が一足先に波に巻き込まれ、混ざり合った。

僕の足は影を追うように一歩、海水に近づいた。

 薄っぺらい皮の中身が光り輝きながら大きな海に入ろうとしている。頭の先端はまずいな、と考える。だって海に入ったら負けてしまうのだから。

 その負けは何への敗北で、何への勝利なのか。

 海水は冷たく、薄っぺらな皮を貫いて体内に潜り込んだ。

ベータの両腕もまた、エイの表面を突き破った。歪に混ざり合った「それ」は生き生きと弾む。そして三回ほど跳ねたところで、更なる未知を目指して海に入って行った。

最後まで高い波の間で揺れていた学生服も次第に光と影の粒に引き裂かれ、散り散りに沈んだ。


どれくらいの時が経っただろう。

空にはいつの間にか星が透けてきていた。

夕闇の中を少年の形がふたつ、海岸を駆け抜けて街の方に溶け込んでいく。

海岸では飛んで来たカモメが、忘れ去られた学生鞄の上で丸くなった。


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