根源の統一
「長老達を前にしても 「私のいろ」が保てること」
「そもそも私は ここから動いていないこと」
「今 私を阻むものは なにもないこと」。
その「実践」を 着々と積み重ねて。
"結果 見えてきたもの"は
「道の保証」
「自分への 信頼の押印」
「そしてそれが 全適用されている世界」で
それが私の創り出した「フィールド」、
光の創世神話の舞台で ある。
そして
それは
「自ら 承認の場を創り出し 実行する」
その一連の流れ自体でもあって
「自分でその舞台を設定して」
「それを超え」
「納得いくまでやって」、
「そう 成る」、その「道のり」なのだ。
「 ふむ。」
だから それを超えて「また視えてきた新しい景色」に。
感心しながらも 「きちんと新しい翻訳にして」、
新しい世界の面白さを味わいながら 進んで いたんだ。
「 さぁ て?」
言うならば 「All フリーの私」
その視点が観るものは
「自ら創り 実践して得た物理的距離」で
だから今 目の前には「何があっても流せる景色」が展開している。
そう、「離れて観れるから」。
正しく客観視できて、ただ、眺めていられるのだ。
「 うん。」
やはり、「実践」で視線のポイントが合い
「自分のレンズ」が馴染み始めた お陰で。
「真の光」「真理」「己の光」を正しく視ることができてきて、
それが今の私の「ものさし」と成っているんだ。
「動かず 真ん中に在って」
「何を観ても 「反応」せず」
「「理解」をして その先を視ること」
そうして積んできた光は私に「その結果のこたえ」を創り出し
「何を観ても大丈夫な私」と
「問題の起きていない現実」を映し出している。
「 ふむ。」
今「お金」や「物」、
「大きな組織」や「それを支えていた仕組み」
そんなものが軒並み崩れているこの世界において
「共通価値」は何もなく、「真理」しか ないし
「虚構」は見るにも値しない。
そしてまた 「真理」とは
「個々で異なるもの」で あり
「はっきりとした形はない」から よくわからない様に思われるけれど
「それ」を持つ者にはわかる「共通のいろ」があり
それが、「個々のスペース」なのだ。
「 んで、だから? それが「オーラ」ってことか、これまでの表現で言えば 。だから、いろがはっきり視える人と 薄くてほとんど無い人がいるんだ。 」
その「表現」もまた
「個々で境界線が異なる」からして
その「違い」を議論する気は 無いけれど
すべてが 固有に持っている
「存在の場」を
"量れるモノは 存在しない"。
そう、これまで当たり前にあった「統一の基準」は存在せず
私達は「量れないもの」へ戻る。
そして
新しい視点で視る 個々のフィールドは
例えて言うなら独特の磁力を発していて
「仲間を呼び」「それ同士が繋がる」からして
「より 安定」「調和」を齎す ものだ。
「 まあ、私から言わせて貰えば 「それ」は「いろ」だから。 相性、というか「コーディネート」? 「合う」、「合わない」は やっぱりあるよね。 でも「それ」は、既存の「色合わせ」では ないけど。 だからやっぱり、「要石」が。 現実味を帯びてきたな 。」
そうやって「口に出すこと」で。
自分の「しっくり感」、「コーディネート」や「お気に入り棚の配置」を思い出すけれど
やはり「自分がこだわりを感じていた部分」には
こうして きちんと理由があって
それは 「自分にとって大切なこと」を 沢山含んでいるからなんだ。
なるほど 。
今 私が感じている「点」
それは
「私という エッセンス」
「情報の集まり」で あり「波動」
「それそのものの いろ」 。
そして
それを擁する「器そのもの」がこれからは「価値」に なり
「交換手段」「一つの基準となる」という「こと」だ。
「 うむ 。」
だがそれも 「いろを視る」に止めて。
「想像以上」を展開する為に
「それ以降はせかいに任せ」
「私はそのもっと先を視ることにして」
「本質のいろの ワクワクを感じる」。
それに。
「 うん、やっぱり。 「ここでは私が石を創れること」と それは関係してるな ?」
そうもまた思うけれど
私の存在の特殊なところは「私が石を創れる」とか
「一種の権威に見える存在であること」等の表面的なことではなく
"要石として機能すること"
即ち「調律」「繋がり」「循環の流れ」
「柔軟性と透明感を保つ為にあること」で、
その「性質が要」で あるところだ。
だから「その 根底に流れる いろ」
それを観ながら。
「自分が "何を観る為に" 創り出しているのか」
その位置に立ち、俯瞰してみることにしたんだ。




