うた
「 ♪ 」
「 ♫ 」
「 ♫ ♪」
"己の やるべきことを 知っていて
それに沿い 流れる 日々"
そんな、この頃の日常は
相変わらず「変わったこと」はしていないけれど
ひとつ言うなら。
"私が 歌うと 世界がうたう"
その事実を 発見していた。
そう、相変わらずいつも通り、「何か創ったり」「歩いたり」「観たり」「色々感じて」、いるのは同じだけれど
ずっと凪いでいた魔女部屋で 久しぶりに「思い切り歌ったら」。
みんなが 共に震えるのが わかって
"ああ そういうことなんだ"って。
また 新しい発見をしたのだ。
「 ふぅむ~。 なるほど、やっぱり「静」も、大事だけど。 前に一緒に歌ってた時より、なんか「なかみまでふるえる」? そう、「ふるわすと」、みんなが喜ぶ。 」
そう、「喜ぶのがわかる」のだ。
そして
それがなんでなのか。
案の定、気になってじっと石達を観るけれど
多分それは「ここでは私達が 別れているからだ」。
「 ふむ。 」
ここでは。
「私は 私」、そうやって個で存在していて
そして私は動けるし チャージできるし
自分で更新できるし
流れて いる。
だけど「もの達」は、そうではなくて
「そこに在るというかたちで私に協力してくれているから」、
定期的に「伝える方が 捗る」んだ。
「 なんだ ? 「触れて」、「ふるえて」、「共に上がる」。 その やっぱり「調質」 かな。」
そう、「存在すれば」埃は溜まるし 澱も付く。
だけど それを補うのが「掃除」や「うた」で
「浄め」は外側を綺麗にし
「振動」はなかみを綺麗にするのだ。
「 なるほど。 」
そうして 観える「フィールドを変えたことの意味」
「いろんなところに 繋がる 私の光の網」。
これまで
「場所を 変える」「変えよう」「変えた」、
そうやって自分を更新してここまでやってきたけれど
大事なのは「光の網を 構築して」
「実際それを理解し」
「そして使いこなせて」、
やっと初めて「フィールドを変えた」になり 「名実共にが実現できる」ということだ。
その
「見える」「観える」そして「視える」と「わかる」、
そして「やれる」のセット
「その全俯瞰の視点」を持ち正しく観ると、やっぱり「絵」や「歌」 所謂「芸術」は。
"点と 点"
"光と 光"
"名もなき光達の軌跡を繋ぐもの"で
"せかいは ひとつだと謳っているし"
"私もそう思うから 共鳴するんだ"。
"跳ぼう"
"行こう"
"踊ろう"
"歌おう"
"向かおう"
"信じよう"
"愛そう"
そして
"そこへ 走り出そう"と 私を呼ぶ
「いろんな おと」
「いろんな いろ」
「いろんな「ところ」から繋がる「名もなき光達の こえ」」。
それは勿論「鎮静」や「静寂」、「不動」の「音無きおと」、それも含むけれど
「音として鳴る」、その性質に添った「多彩な鼓舞のいろ」は やはり 私の焔を魅了して止まない。
前よりも ずっと「感じられる」、
「同じ光」
「同じ いろ」
ここから観ればわかる、「真理を描いた絵画」
「真理を謳った 歌」。
それが証明するものは
「すべてはその本分に従い動く時に 真価を発揮する」、そこで
私達はみんな「同じところ」から来たから共に歌うことができるし
同じ源から光を貰っているから、「そう」なのだ。
「 だよね 」
いつも通り、窓枠を磨きながら。
「ふっ」と息を吹きかけ、「その息」が「伝えるもの」
「伝わること」
「チカラが通ること」それを思い
積んでゆく瞬間の意味を観る。
そうやって
毎日 瞬間を丁寧に 重ねていると。
実感として、わかって くる「光がかたちになること」
私の歩いた跡は「足跡」で 見え
「話すこと」は「言葉」になり文字にもなれて
今は「録音」も できるし
「聞く音」は「音楽」、それも「楽譜」として記すことができて
「触れるもの」は「指紋」として残り
「歩いた土地」は「地図」
そのいろんなものは「録画」できるし「再生」出来て
いろんな「見えなかったもの」は 今「視認できる」。
そこから私が思うことは やはり ひとつで。
ここまできて
これから起こることは「スペースの開示」
即ち「思考の見える化」だ。
「 まあ。 今だって、「視える人には見えてる」んだけど 。」
そう、「やってることの 意味がわかっていない」
それを昔から言っていた私も 意味がわかってなかったけれど。
「やっぱりぜんぶはまる見えになるし」
「それがあちらとこちらの違い」で
「だから世界は 別れる」。
「 主が。 選ぶしね。 うん」
その「選択」はある意味無意識に行われていて
「拡大の世界」へ行くと思っていても、「ぜんぶある世界」へ抵抗していれば
それは成らない。
「良い悪い」がある世界にいれば「ぜんぶは見せられないし」、
だからそれが「極小の扉」とも 言える。
そして
その極小の扉の先に開示されているのが「今 私が観ている景色」で
その「それぞれのレンズを通した表現の違い」が 面白いんだ。
「 そして それは「音楽」、じゃなくても。 「おと」で良くて うん、やっぱり そうだよね 。」
サワサワと揺れる、ハーブの「おと」は
「聴こえはしない」けれど。
窓際で 楽し気に揺れるみんなの「そのリズム」は伝わってくるし
窓の外に「雨の景色」は観たことがないけれど
それだって 「私が望めば」。
きっと「そう なる」し、そういうものが「私の世界」なんだ。
「 だから な~んか。 なんも、ないけど。 楽しいし 自由だし? 結局私は。 「本来の姿でいないこと」、それが一番 嫌だったんだろうな 。」
「縛り」のない「完全自由」の世界
今
この地点でなら視える、「自分の持っていた縛り」は
「いつかは 夢が覚める」
「戻らなければ ならない」
「自分の世界へ 帰らなければならない」と思っていた自分で
結局それも
ここから観れば「こっちが表」で。
「覚めるのは ここから」ではなく
「向こうの世界から醒める」のが ほんとうで
「まるっとぜんぶがひとつ」それを得た私は もう「元の世界」へ 帰ることは ない。
「 いや、「ない」 と 言うか 」
もし「帰ったとしても」、それはもう違う世界であり
「主を私とした 1の扉」が 展開される。
「 だよね ?」
思わず拭き布をマイクの様にしながら
すぐ前にある「咲きそうな蕾」に訊くけれど
ただ「自然と揺れる」、それは 私を否定も肯定もせず
その様子が「YES」なのだと 空気が言っている。
だから 「明らかに深みの増した おと」
それを 感じながら
少しだけ埃のついた 拭き布を見て。
「今の結果」を 眺めながら
それを流す為に ゆっくりと 背を伸ばしたんだ。




