第37話「コーヒーはドキドキの香り」
8月10日土曜日。
夏休みと言っても練習スケジュールに変更はない。
相変わらず、土日の午前中に練習する。
もう大分と新しい練習メニューにも慣れてきた。
8分間練習して2分間休憩し、それを1本と呼ぶ。
練習はウォーミングアップとクールダウンを含めて3時間行われるので、18本だ。
練習が上手く行かなかったからといって、同じ練習を繰り返したり、延長したりはしない。
スケジュール重視で練習メニューは消化されていく。
技術的なコツなんかの情報交換は、2分間の休憩時間にスポーツドリンクを飲みながら行われる。
ところで、古宿少年サッカークラブでは「ヘディング」を禁止している。
試合だけじゃなく、普段の練習でも「ヘディング」は禁止。いかなる時も絶対に禁止。
これは、たんぽぽちゃんのお父さんの方針だ。
こじろうパパだけじゃなく、他の父兄も「ヘディング禁止」という方針に反対していたが、たんぽぽちゃんのお父さんが根拠にした、海外の研究を聞かされて納得した。
内容は、18歳~50歳を対象にした研究なのだが、ヘディングをすると、脳しんとうリスクが上昇するといったものだった。特に女性は男性に比べて5倍のリスクがあるといったものだった。
たんぽぽちゃんのお父さんは「成人でさえ脳しんとうリスクが上がるのに、小学生に悪影響がないわけがない!絶対に禁止!」と言いきった。
相手チームと比較して、こちらに戦う術を1つなくしてしまうのは、勝利から遠ざかってしまうんじゃないか…との意見もあったが、「勝利と脳へのダメージとどっちが大事デスカ?」といつもは温和なたんぽぽちゃんのお父さんが低い声で言い放って、一蹴した。
「むしろ、日本のサッカーコーチ全員にヘディング禁止をお願いして回りたいくらいだ」とたんぽぽちゃんのお父さんは言っていた。
なぜ、脳を損傷する恐れのある行為を野放しにしているのか、「全く理解できない」と言っていた。
☆☆☆
こじろう君は、最近、低いシュートが打てるようになってきた。
桐生先生曰く「筋肉を上手く使えるようになったからですね」とのことだ。
どういう理屈なのかな?と思ったのだが、以前は、強くボールを蹴る時に後ろ体重になっていたらしい。
以前は、ボールを強く蹴る際、踏切の足を延ばしていたのだが、最近は、ロナウドに倣い、前傾姿勢でボールを蹴るように意識したのが良かったらしい。
桐生先生の足り方講座で培った、股関節を意識して走る練習が、ボールコントロールでも活きている。
「あ…なるほど…」
桐生先生の言った意味は、わからなかったのだけど、その後、達也に解説されてやっと理解できた。
以前の自分は、強くボールを蹴る時に、踵体重になっていたのだ。
つまり、重心が後ろにある状態で、足を延ばしてボールを蹴るから、絶対にボールが浮く。
もし、その状態で低いボールを蹴ろうとしたら、ボールの上部分を蹴らないといけないので、今度は強いシュートが出来ない。
そう解説されると、そりゃそうだ、当たり前なのだが、何で今まで誰も教えてくれなかったんだろう、と疑問に思ってしまう。
改めて理論の大切さを学んだ気がした。
☆☆☆
8月12日月曜日。
今日は山の日の振替休日で、お父さんたちの会社も休みなので、山登りに来ている。
メンバーは、僕(こじろう君)、たんぽぽちゃん、萌ちゃん、達也、健介、雄二、大樹、豪、一太、それに、たんぽぽちゃんのお父さんと、大樹のお父さんだ。
山登りと言っても、1000mにも届かない山で、しかも、半分はケーブルカーで上るので、もうほぼハイキングだ。
2時間ほどで頂上まで登って、お昼ご飯を食べて、下山するという予定なのだが…
「そんなに荷物を持って来てるの??」
それぞれが持って来ている装備に、めちゃめちゃ個性が出ている。
達也と一太はとにかくカバンが大きい。食料を多めに持って来ているのと、着替えが入っているらしい。
たんぽぽちゃん親子と大樹親子は、最新の装備、という感じだ。たんぽぽちゃんのお父さんは登山が好きらしく、「頂上で最高のコーヒーを飲むんだ!」とお気に入りのコーヒーセットを買いそろえてきたらしい。
大樹親子はトレイルランニングが趣味らしく、スポーティな軽装に見えるが、実はなかなかの重装備だった。いつでも水分が補給できるように、背中から口元へストローが伸びている。ちょっと羨ましい。
「お前ら…スニーカーで来たの?」
「違うよ!運動靴だよ!」
そう、僕、健介、雄二と豪は、いつも履いている靴で来てしまったのだ。
おじいちゃんとかおばあちゃんが登っている山だし、大丈夫だろう、と高を括っていた。
登山中、濡れた枯葉の上で、こけて腕を擦りむいたのは、内緒にしてもらいたい。
☆☆☆
頂上。けっこう疲れた。
駅でもらった地図を確認すると、歩いた距離は約8kmで、登った高さは約200m。ほとんどケーブルで800mも登っていたのか…ケーブルを使うコースで良かった。
所詮、日帰りで登れる山なので、スニーカーでも危険はない…擦りむいた腕は、お父さんとお母さんには隠しておこう。
お待ちかねの昼食タイムだ。
いい感じの岩には、人が沢山いて、座れそうもなかったので、僕たちは草むらの中でお弁当を広げた。
お母さんは、僕の注文通り、お弁当に唐揚げを大量に入れてくれている。
僕は唐揚げさえあれば幸せなんだ。
たんぽぽちゃんのお弁当は、サンドイッチだ。
「みなさんドウゾ!妻が焼いたパンで作ってみました!」
たんぽぽちゃんのお母さんが作った食パンを使って、たんぽぽちゃんのお父さんがサンドイッチを作ったらしい。
たんぽぽちゃんのお父さんは、みんなにサンドイッチを振る舞いつつ、コーヒー用のお湯を沸かし始めて、コーヒー豆をミル…と呼ばれている器具に入れて砕き始めた。
「お!たんぽぽちゃんのお父さん!本格的ですね!私もコーヒーを持ってきましたが、キット製品なんですよ」大樹のお父さんも、お湯を沸かし始めて、そう言った。
「実際、味はそこまで変わらないのデスが、私はこのグラインドしている瞬間が好きなんデスヨ」
「あー。わかります。挽いた時の香りって特別ですよね。でも、手間になっちゃうので、ついつい、インスタントになっちゃいますね」
「ははは。いや、今日は格好付けて持って来てしまいまシタ。普段、家ではゴールドブレンドですよ」
「あ!同じです!ゴールドブレンド美味しいですよね!インスタントって感じしませんよ」
「本当デス!ははは」
大人がコーヒーで乾杯している時、僕に千載一遇のチャンスが訪れてしまった。
「こじろう君もコーヒー飲む?」
たんぽぽちゃんが僕にコーヒーを持って来てくれた。
「あ…う…ぐ…」
ああ…ダメだ…たんぽぽちゃんに話かけられると声が出ないよ。
胸がドキドキして、喉がカラカラに乾いて、手は震えて汗が垂れている。
僕は何とか、首を縦に動かした。
「砂糖とミルクはいる?」
「ぐ…ぎ…」
砂糖もミルクも大量にいる。
というよりも、コーヒー3に牛乳7でやっと飲める味になる。
ベストはコーヒー1に牛乳9だ。
だって、コーヒーって苦いんだもん。
だけど、首が横に動かない。
さっき、縦に動かしたからか、今、僕の首は縦にしか動かない仕様になっているようだ。
「じゃあ、これ、どうぞ」
たんぽぽちゃんから、ブラックコーヒーの入った鉄のコップを受け取った。
「あ…あり…がとう…」
老舗の喫茶店に入ったかのような、コーヒーの強い香りのおかげで、なんとか声が出せるようになったようだ。
こんなにいい香りなら、きっと美味しいに違いない、と思い一口コーヒーを飲んでみた。
苦っ。
やっぱり苦くて飲めないや。
申し訳ありません。
途中で投稿してしまっていました。