第34話「一太の歯軋り」
一太。
彼はこじろう達とは学年が一つ下で4年生だ。
一太は4歳の頃に小児喘息を発症し、近所の小児科病院へ通うこととなった。
喘息の症状は軽いのだが、一太のお母さんは診断後、泣きじゃくった。
おばあちゃん先生は、喘息はあるけど、普通の生活が送れるから、そんな大事じゃないって言ってるのに。
何度か小児科に通っていると、小児科医に通っている者同士の友達が出来る。
一太にも友達が出来た。
保育園の友達とも違う友達。
喘息という病気を共有できる友達。一太は何だか嬉しかった。
普通の生活が出来るといっても、喘息持ちと一緒に遊ぶ友達は気を使わないといけない。
一緒に遊んでいる最中に、自分の喘息発作が始まると、先生は「何で一太君を走らせたの!」とか怒るんだもの。そりゃあ、遊んでくれる友達が減っていく。
だから、小児科で出来た友達は、保育園の友達にはない、なにか特別な感じがした。
小児科で出来た友達は、1学年上で、5歳だった。
彼は、2歳の頃に喘息を発症し、以来ずっと、このおばあちゃん先生のお世話になっているらしい。
ああ。だから、なんとなく病院慣れしてるんだ、と思った。
一太が小児科で友達になった男の子、彼の名前は達也。
ある日、一太が病院へ行くと、達也くんは既に待合にいた。
達也くんは本を読んでいるようなのだけど、何故か同じページをずっと睨んでいた。
「それ何?」
「詰将棋」
「詰将棋?」
「将棋ってわかる?」
「うーん…名前を聞いたことはあるけど…」
「じゃあ、教えてあげようか?」
「うん!」
こうやって、一太は狭い待合空間から広い思考の空間へ連れ出してもらった。
いつしか、病院に通うのが楽しくなっていった。
達也くんが病院にいないときは、お母さんに買ってもらった「三手詰将棋」の本で時間を潰し、達也くんがいる時は、駒落ち将棋で対戦した。
一太が小学生になった頃、達也くんが病院に来なくなった。
喘息が治ったらしい。
経過観察のために、達也君もたまに病院には来るのだが、以前のように通院する度に一局指すわけにはいかなくなった。
一太はまた、待合の狭い空間から抜けだせなくなってしまった。
達也くんがいた時とは違い、詰将棋の本が、今度は狭い思考の空間に感じられるようになってしまった。
「一太くんもサッカーやらない?」
「サッカー?」
一太はサッカーが大嫌いだった。
自分をサッカーに誘ってくる奴らは、サッカー自慢したいやつだ、という思いがあった。
小学校の自由時間で、サッカーを希望する奴らは、決まってサッカー教室に通っている奴らで、純粋にサッカーを楽しんでいないように思えていた。
サッカーが楽しいのではなくて、サッカーをしている自分に酔っているアホの集まり、それが奴らだ。
だから、やたらと自分たちにボールを集めたがるし、「パス!パス!」と意味のないところで言ってくる。
「このパスにどんな意味があるの?」
「いいからよこせ!」
まるで話が通じない。
猿だ。サッカーをする奴らはお猿さんだ。アイアイの曲が聞こえて来そうだ。
ガッカリだった。
あの聡明な達也くんが、サッカーをやっている。
達也くんもお猿さんの仲間入りを果たしたのか…
だけど、興味は引かれた。
悩んだ末に、おばあちゃん先生に相談してみると「大丈夫だと思うよ」という答えが返ってきた。
古宿少年サッカークラブ。
達也くんが所属しているチームにいくと、想像通りのチームだった。
監督がサッカーの技術を教えて、小学生がそれに従う。
たまに、大声で監督が怒ったりなんかして、小学生が泣きながら「やります!」なんて言う。
面白くもなんともない。
まあ、喘息で呼吸器が弱いので、軽い運動のために通ってみることにしよう、と思った。
サッカー。
改めてサッカーをやってみると、やっぱり面白くない競技だと思った。
サッカーを将棋に例えると、駒落ち同士の戦いだ。
ゴールという「王」を守りながら、「歩」だけで相手の「王」を攻めるだけの競技だと思った。
結局、「歩」の優劣で勝敗が決まり、戦略性は乏しい。
ちょっとした配置を、戦術といっているおバカなスポーツ、それがサッカーだ。
お猿さんたちがやるには相応しいスポーツだと思っていた。
そのお猿さんたちの中でも、やっぱり達也くんは凄いと思った。
彼は、誰に言われるわけでもなく、微妙に自分の立ち位置で相手を誘導し、シュートコースを空けたりしていた。
お猿さんの中に人類が一人いる、と思った。
自分も、人類になろうと思い、サッカーの大局観磨いた。
思った通り、相手のポジションを誘導することは、かなり単純だった。
だが、達也くんや自分が、ポジショニングを気にしてサッカーをしていることに気が付いている者はいなかった。
だから、一太は、まあ仕方がない、お猿さんの集まりなんだから、と思うようになった。
気付いてはもらえないが、心のどこかで、サッカーを好きになっていっていた。
いつかは、達也や自分がチームを勝利に導ける、そう思っていたからだ。
だが、1勝も出来なかった。
やはり、体力のない、自分にはサッカーは向いていないんじゃないか?
ポジショニングなんて無意味なんじゃないか?
そもそも自分なんかがいるから勝てないんじゃないか?
そう思い始めていた。
そしてまた、狭い思考の空間へ閉じ込められた気がした。
☆☆☆
7月27日土曜日。
今日も、走り方講座から、サッカーが始まった。
これがけっこう面白い。
今日は足を進行方向へ上げる練習を教えてもらった。
意外にも、進行方向とげ別の方向へ足が上がっていることが多く、エネルギーを左右へ分散しながら走っていることが足を遅くしている原因なのだということだった。
車でいうなら、蛇行運転をしているようなものだ。
これを直す。
自分も、真っ直ぐ走っていなかった。
右足は進行方向よりも右へ出し、左足は若干左へ傾いていた。
男子はこの傾向が強く、女子は逆の傾向が強かった。
萌ちゃんは、めちゃくちゃ内股だったので、エネルギーが逃げまくりだった。
気が付けば、こうやって一つ一つ、課題を着実に克服していくチームを少し好きになっていた。
もうお猿さんの集まりだった、自分が想像していた、サッカーチームではなくなった。
セットプレーの導入により、もうお猿さんのサッカーとは言えなくなったのだ。
そればかりか、一太自身のサッカーの見方が変わった。
以前のように、サッカーを「歩」と「王」の単純競技として見れなくなっていた。
サッカーは、まさに将棋そのものだ、と思うようになった。
こじろう君は「飛車」だし、真子ちゃんは「角」だ。剛は「銀」で拓海は「桂馬」。
それぞれの特性を活かして、自分のポジション取りを変化させないと、駒の能力を最大限に引き出せない。そう思うようになった。
そして、たんぽぽちゃんのお父さんから、衝撃的なことを言われた。
「DFの二人には、申し訳ないデスね、練習試合でしか、本当の練習をさせてあげられマセン」
気付かれていたのだ!
達也くんと自分のポジション取りで、シュートコースを開けていたことを、死神ポジションの選手たちがボールを奪いやすいように、自分たちが動いて誘導していたことを。
自分たちの秘密の活動、お猿さん達には知られることのない行動を気付かれていた。
「いえ、大丈夫です。僕たちなら、ここで練習できますから」
そう言って、達也くんは、自分の頭をコンコンと人差し指で突いた。
「そうデスか。君たちが砦デスから、チームをお願いしますね」
「「はい!」」
一太は、この狭いグランドが、宇宙よりも広い空間だと感じるようになった。