第30話「たんぽぽパパの想い」
たんぽぽちゃんはニューヨークで生まれた。
たんぽぽちゃんのお父さんはボストンで生まれ、ボストンの大学へ進学し、日系企業に就職しニューヨークで働いている。日本の感覚でいえば、京都で生まれて、大学まで京都で過ごし、就職して東京へいった感じだ。
ニューヨーカーとしては一般的な一家で、2LDKのマンションに住み、週末は公園に出かけてキャッチボールなんかをして楽しむ。
ミュージカルや演劇なんかは寝てしまうので滅多に見ないが、誘われれば見に行く。
以外にもステーキはそんなに食べない。
たんぽぽちゃんのお父さんはステーキが大好物なんだけど、お母さんの作る和風ハンバーグの方がお気に入りなのだ。
夏は野球、冬はフットボール、春はフットボールのドラフトで盛り上がる。
たんぽぽちゃんのお父さんが大学時代にフットボールをやっていたということもあり、たんぽぽ一家のフットボール熱は暑い。
たんぽぽちゃんにもそれが伝染し、冬になるとよくフットボール観戦に入った。
アメリカでフットボールと言えば、アメリカンフットボールだ。
ニューヨーク近郊には3つの球団がある。ジェッツ、ジャイアンツ、ビルズだ。
昨年は、ジャイアンツにとんでもないランニングバックが入団したので、たんぽぽちゃんのお父さんは8試合もジャイアンツ戦を見に行った。8試合とはニューヨークで行われた全試合だ。
8試合見に行って、勝ったのは2試合だけ。
フットボールは地元が有利だ。
なぜなら、クラウドノイズ(観客が声で妨害する行為)をルール上認めているから。
スタジアムで相手チームの妨害をするのが推奨される競技…と言ってしまうと下品なのだが、それがまた面白い。
使用するのは声だけだ。ラッパや太鼓など音の出るものを使用すると、ファンであってもスタジアムを出入り禁止にされてしまう。
公式ルールで、クラウドノイズが認められているので、観客もチームの一員となって声で戦うのだ。
そんな圧倒的優位なホームゲームで、昨年のジャイアンツは8試合中2勝しかしなかった。
ただ、新人ランニングバックの個人技は素人目に見ても凄かった。お父さんも、30年以上見てきた全てのランニングバックの中で最強だと言っていた。
試合観戦後、お父さんが、やっぱり個人技よりもチーム力だな、と呟いたを覚えている。
お母さんは日本人で、お父さんが勤める日系企業で、日本語の先生をしていた。
その影響もあって、たんぽぽちゃんの家では日常会話は日本語で行う。
たんぽぽちゃんは器用で、友達とは英語で話し、両親とは日本語で話す癖が出来ていた。
しかし、たんぽぽちゃんが10歳になったくらいで、急に日本語に詰まるようになってきた。
原因は、たんぽぽちゃんが英語で思考するようになったからだった。
10歳までのたんぽぽちゃんは、日本語で考えて日本語で話していた。
友達との会話は英語でやっていたのだが、テンプレート的な会話を返しているに過ぎなかったのだ。
10歳となり、複雑な会話が増えると同時に、思考そのものが英語でするようになってしまった。
思考を英語で行うことには、全く問題ないのだが、日本語で考えていないので、日本語が出なくなってしまったのだ。
当たり前だが、たんぽぽちゃんは通訳者ではない。
英語で考えた事を、日本語に翻訳することは出来ない。
なぜなら、英語のハッピーと日本語の嬉しいは違う意味なのだから。
適当に訳せばいい、なんて無責任なことは出来ない。
たんぽぽちゃんは真面目な子なんだから。
たんぽぽちゃんは、真面目であるが故に、両親と日本語での会話が出来なくなってしまった。
たんぽぽちゃんのお父さんとお母さんも、日本語で会話が出来なくなることに危機感はなかった。
英語で会話をすればいいのだから。
混乱したのは、両親ではなくたんぽぽちゃん自身だった。
人は得たものよりも失われたものを思う。
失われていく思考言語。
たんぽぽちゃんにしてみれば、自分が違う人間になっていくようで恐怖を感じていた。
あるとき、日本語に詰まり、大声で泣いた。
たんぽぽちゃんが泣いたときにはじめて、両親はことの重大さに気が付いたのだ。
そして、調べてみると、たんぽぽちゃんのお母さんの周りには、「母語」のない人が多くいることがわかった。
通訳者の間では、A言語、B言語、C言語という通訳言語の段階付けが存在する。
A言語とはつまり母語である。母語として豊富な語彙と正確かつ闊達な表現が可能な言語をいう。
B言語とは母語ほどには語彙が豊富ではなく、またアクセントと表現の洗練も多少劣るが、ニュアンスは完全に理解できなければならない。
C言語とはA及びB言語と同様に完全に理解できるが、能動的に表現する能力は多少劣る。
じつは、通訳者にはB言語+B言語という人が一定数存在する。
母語を持たず、思考は両言語で行うのだ。
母語を持たない、ということはそれほど問題ではないのかもしれないが、たんぽぽちゃんからしたら、大問題だったのだ。
たんぽぽちゃんのアイデンティティは、日本語で思考することだったのだから。
たんぽぽちゃんのお母さんは日本語の先生ということもあって、日本語にはちょっとうるさい。
日本でテレビを見ていると、すぐにテロップの間違いに気付いて、突っ込みを入れている。
お母さんを前に、違和感を感じる、なんて言ったら大事だ。
「違和感はあるのかないのか、覚えるか覚えないのか、ですからね!」
たんぽぽちゃんはそんなお母さんに憧れていたのに、日本語も詰まるようになってしまった。
たんぽぽちゃんのお母さんも、たんぽぽちゃんにA言語を習得してもらいたい。
英語でも日本語でもどちらでもいいが、たんぽぽちゃんが日本語を選択するのなら、日本語を母語にしたあげたい。
家族会議の結果、お父さんは日本への異動届を会社へ提出し、念願叶って日本にやってきた。
引っ越しをするにあたって、問題はもう一つ。
たんぽぽちゃんは超絶可愛い。見た目の問題である。
特異なものを排除するという人間の性質は、日本でもアメリカでも共通している。
日本で暮らすのは、ものすごく心配だった。
せっかくアメリカで上手くやっているのに、環境を変える必要があるのか。
娘が排除されるんじゃないのか?イジメられるんじゃないのか?という不安があった。
だけど、娘は転校初日から、同級生の女の子二人と一緒に帰宅し、一緒にサッカークラブに入ると言い出した。
自分たちがサッカークラブに入らないと、試合に出れないので、お願いされたらしい。
嬉しかった。娘は初日から上手くやっているし、いい子に育っているようだ。
ただ、練習へ見学に行くと…かなりショックだった。
失敗を怒鳴りつけるコーチに、テクニックに固執する子供たち。
非常に悩んだのだが、たんぽぽちゃんのお父さんはヘッドコーチを願い出た。
失敗を怒ることは、間違った行為である。
コーチが選手に対して、失敗する度に「怒る」というインパクトのある行為をしてしまうと、選手は失敗を脳に植え付けてしまう。
失敗なんて、忘れればいいのに、わざわざコーチが怒るので、記憶に定着してしまうのだ。
怒るという強烈な印象に残る行為によって植え付けられた記憶は、大事な時に呼び起こされる。
それが、失敗のメカニズムだ。
コーチが怒るということによって、失敗を再誘発する。
正しいコーチングは逆だ。
成功を褒める。出来る限りインパクトのある褒め方で褒める。
そうすれば、成功したことが、記憶に定着し、次も成功する。
そうやって、成功体験を積ませることこそが、コーチングなのである。
と、もう20年も前に、ボストンで学んだことなのに、日本では定着していないようだった。
なので、その文化を変える。
そうしなければ、娘が失敗体験を多く積み、失敗体験を記憶に定着させられることになってしまう。
目立ちたくはなかったのだが、仕方がない。
さらに、もう一つ、このサッカーチームには問題があった。
コーチングのバランスが悪いのである。
技術史上主義なのである。
スポーツは、心技体のバランスで成り立っている。
サッカーも他のスポーツ同様、テクニック以外にも、知識や体力や筋力やフェアプレイの精神も重要なのだ。
だが、何故かテクニックばかりを重視している。
テクニックのある選手が優遇され、体力や知識のあるものは2軍扱いを受けている。
意味が分からない。
8人制サッカーなら、8人で戦えばいいのに、こじろう君という子供1人で戦わせようとしている。
フットボールIQの高い達也くんや、無尽蔵の体力を誇る雄二くんは、サッカーのテクニックがない、ということで、チーム内では不当に低い扱いを受けている。
彼らの個性がこじろう君のテクニックと同等に素晴らしいということに気付く者がいないのだ。
しかも、8人制サッカーは16人も選手登録が可能で、選手交代は無制限である。
つまり、8人制サッカーとは、16人でやるサッカーなのだ。
11人制サッカーは3人か4人しか交代が出来ないので、試合に出れるのは、最大15人。
それを考えると、実は8人制サッカーの方が11人制サッカーよりも場合の数が多くなり、より戦術的サッカーをする事が出来るため、作戦によっては実力差を跳ね返せる競技ということになる。
だが、どのチームもそんな単純なことにすら気が付いていない。
たんぽぽちゃんのお父さんは練習試合で驚いた。
日本ではこじろうパパの考え方が一般的なのだ。
何故か、どこのチームも、16人でサッカーをしない。
8人制サッカーなのに、2~3人でサッカーをしている。
他の5人くらいの選手はお飾りだし、ベンチにいる他の選手たちは試合が終わるまでベンチにいる。
その活躍している2~3人もテクニックが他の選手より優れているだけで、体力やフットボールIQなんかを含めたトータルでみると、他の子たちとそんなに違わないように思う。
だから勝てる。
成功体験を娘にプレゼント出来るのだ!