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下賜姫は思い出しています

エレノア視点です。

 彼に初めて会った時、私はとても間抜けな顔をしながら「あぁ」と喘いだ。

それはとても小さな小さな声だったから、アディソン伯爵にも、側に控えている伯爵家の執事にも、長く仕えてくれている侍女のエミリにも、聞かれては無かったようだ。

カルロス・アディソン伯爵、御年52歳。

この、元の色がわからないくらい白髪の交じった髪に少しくすんだ茶色の瞳を持つ、どこまでも穏やかそうな壮年の男性が私の再婚相手だ。

卒のない名乗りに応えて自己紹介をするとふわっとした微笑みを与えられ、胸がトクリと音を立てる。

「エレノア様?」

侍女のエミリが小さな、けれど気遣わし気な声で私の名を呼んだ。

それに小さくうなずいて私はゆっくりと歩き出す。

勘の鋭い彼女には私の心持がばれてしまっただろうかと恥ずかしくなる。

初対面を果たした明るいエントランスを抜け、少し暗い廊下を進むとひんやりとした空気が火照った頬を撫でる。

初夏の暑さに当てられたのかそのわずかな涼がことのほか心地いい。

アディソン伯爵の白髪の交じった後頭部や、温かみのある大きな背中を見つめながら広い廊下を静かに歩く。

家のつくりは実家の邸とそう変わらない。

ただ飾り物が多い実家と違って、すっきりとしている。

塵ひとつ無く磨かれた廊下を見ていると、小さい頃を思い出す。



 私が生まれてすぐに、ひいおじい様は伯爵位をおじい様に譲って隠居したらしい。

その頃の事は全く覚えていないけれど、私が物心つくころにはひいおじい様は仕事を完全に引退して離れに住んでいた。

私の生家であるクロック伯爵家は代々城勤めの文官を多く輩出している家だった。

ひいおじい様も前国王陛下の御代でいくつかの大臣職を勤めたと聞いている。

持っている領地は信頼できる領主に統治させており、領地に出向くのは年数回だけ。

そのため伯爵家の本邸は王都にある。

だから、隠居したひいおじい様も領地に引っ込むなんてことも無く、本邸の離れに住んでいた。


 ひいおじい様の住む離れは幼い私の憩いの場だった。

屋敷の北側、使用人宿舎を隔てた敷地の端っこにその建物はあった。

元伯爵が住まうにはあまりに小さく質素で、山小屋と言ってもいいような風情のそれは、けれども私にとっては世界で唯一くつろげる場所だった。

私は少し変わっているのだと思う。

幼い頃からおおよそ貴族の令嬢が好きそうな物に、全く興味が持てなかった。

赤やピンクの可愛らしいドレスや、華奢で繊細なレースのリボン、ふんわりと柔らかなクマのぬいぐるみや、青い目をしたお人形、光り輝く宝石箱やその中に入る子どもらしく無い値段の子ども用のアクセサリー……両親は十分以上にそれらの「(貴族の)女の子が喜ぶもの」を与えてくれたけれど、私は上手く喜んで見せることができなかった。

だから彼らが私を扱い難い娘と位置づけ、二つ年下の「素直」な妹を溺愛してきたとしても責めることは出来ない。

誰だって、価値観が違う相手とは付き合い辛いものだから。

さらに言えば、私には貴族令嬢としての才能もなかったのだから彼らが私を上手く愛せなかったとしても、仕方のない事なのだ。

私の才能の無さは筋金入りだ。

ダンスや楽器は何一つ上手くならなかった。

食事の取り方や立ち振る舞い、話題の選択にまで「理想の形」があると言われることに違和感しか持てなかった。

小指をピンと立てたティーカップの持ち方が女性らしく美しいなんて、一体誰が決めたんだろう。

優秀な姉が教えられた通り「優雅」に食事をとっていても、窮屈そうとしか思えなかった。

 私の感性は「貴族女性の嗜み」には不向きにできているらしいと気づくのにそう時間はかからなかった。

そしてそう気がついてしまうと毎日ある様々なレッスンは苦痛でしか無かった。

ある日私は本邸を抜け出して、かといって敷地外に出る勇気ももてず、人気のない場所を探して庭をウロウロするうちに、ひいおじい様のいる離れに落ち着いたのだった。


 淑女教育から逃げた私にひいおじい様は学ぶ事を止めてはいけないよと言った。

離れに来てもかまわないが、その分何か学びなさいと本棚を指差した。

ひいおじい様の本棚には色々な本があった。

植物や動物の事、天候や星の読み方、歴史や神話など多岐にわたっていた。

本を読んで分からないことはひいおじい様が丁寧に説明してくれる。

本に載っている以外の事もひいおじい様は教えてくれた。

庭に咲いた花を見ながら、あるいは白昼に浮かぶ白い月を指差して、ひいおじい様が語る物語はいつでも私の心を掴んで離さなかった。


 私について諦めているはずのお母様は、それでも私に「女性の嗜み」を身に付けるように強要した。

そして、それ以上にひいおじい様の離れに行くことを必死で止めさせようとした。

母は年老いたひいおじい様を恐れているようだった。

どうして、あんなにひっそりと穏やかに暮らす人を恐れるのか。

理由が分からない私は、一度聞いてみたことがある。母は眉間にシワを寄せてこう答えた。

「死期が近い人の匂いがするのよ。こちらまで一緒に連れて行かれそうだわ。」

私はそれを聞いて、益々わからなくなった。

私はひいおじい様の教えを受けていたから、死期などほぼ皆に等しく近くにあることを知っていた。

「いつ死ぬかなど誰も分からないんだよ、若かろうが年をとっていようが明日の命を脅かす物を皆何かしらもっている。」

だから日々を大切にしなさいと、幼い私に対して真剣に語られたその言葉はそのまま私の心に染み付いていたから、母がそれを知らない事がとても不思議だった。

それに、もしひいおじい様が道連れを望んだとして、少なくとも母は連れて行かないだろうと思われた。

ひいおじい様は常々天国では静かにゆったり休みたいと言っていた。

母の側で静かにゆったり過ごすのは難しい。

母はいつも口を動かして居ないと気が済まないとでも言うように話すか食べるかしている様な人なのだ。

それにあまり人を悪く言わないひいおじい様が、母のふくよかと言うには立派すぎる体型については嫌悪感を隠しきれない事が多々あった。

ひいおじい様は間違っても母を道づれにしたりはしないだろうけれど、その事を指摘するのはいけない事だと思った。

ただ、私にできた意思表示といえば、どれだけ小言を浴びせられようが離れに通い続けることだけだった。

 離れに通い始めて数年経つころ、ようやく母も諦めを覚え、私は落ち着いて1日の大部分を離れで過ごすことができるようになった。

午前中に最低限の勉強をしてお昼ご飯を食べると離れに行き、離れで夕食を食べてから本邸に帰る。

その間の午後の時間をひいおじい様と話したり、庭いじりをしたりして過ごした。

離れの周りには小さな菜園があって、ひいおじい様はいつも数種類の花や野菜を育てていた。

少ない陽だまりを分け合うように、雑多な植物の育つ菜園はひいおじい様の人柄をそのまま写したかのような風情をしていた。

 ひいおじい様はいつも上質な食事を少しだけゆっくりと食べた。

そして食後に苦いコーヒーを飲みながらタバコを吸った。

エミリが気をつけて換気しても離れはいつもタバコの匂いがした。

私はシガールームの匂いは大嫌いだったけれど、なぜか離れの匂いは好きだった。

ひいおじい様は淑女としての振る舞いには寛大だったが、食事のマナーには厳しかった。

私はひいおじい様と夕食を共にする中で、見せつける為のテーブルマナーでは無く、目につかない為のそれを身につけた。

ひいおじい様は優秀な教師だったし、私はこの時生まれて初めて優秀な生徒になれた。私はますます、ひいおじい様から学ぶことに夢中になった。


 ひいおじい様付きの使用人はエミリ一人だけで、食事や身の回りの世話は全て彼女がしていた。

お風呂の時だけ本邸から何人か手伝いに来ていたが、それ以外は全てエミリが見ていた。

ひいおじい様はあまりわがままを言わない人だったから、それで不自由は無い様だった。

ひいおじい様が亡くなった時、家族は誰も泣かなかったけれど、エミリは私と一緒に泣いてくれた。

1人で泣かずに済んだことを誰に感謝するべきなのかわからず、結局ひいおじい様へ感謝した。

ありがとう、ありがとう。と言って泣く私たちは今思うと驚くほど滑稽だ。

 ひいおじい様が亡くなってから、私は主の居ない離れに籠もる事が増えた。

最初、父母はやめさせようとしたけれど、私は気にせずしたい様にした。

私はかすかに残るコーヒーとタバコの匂いの中でひいおじい様の残した本を読みながら毎日を過ごした。

お稽古事も出来るだけさぼった。

せっかく来てくれた先生達に待ちぼうけさせる訳にも行かず、私の代わりに姉妹がレッスンに出た。

だから私たちのピアノやダンスの実力差は広がる一方だった。


 そんな風に過ごしていたから、後宮入りの話が出た時は何の冗談かと笑ってしまった。

姉妹ならまだしも私では全く王子様に釣り合わない。

その後、冗談で無いと分かると父母の正気を疑った。

美人でもない、体つきが良い訳でもない、嗜みも無い…そんな私が何故王子様に侍る事が出来るのか。

しかし父の決定は覆らなかった。

「他の姉妹達は既に引く手あまただから、あの飽きっぽい王子の元にやるのは勿体ないしね。お前で十分だよ。もしかすると、逆にお目に留まるかもしれないしね。王子様のお情けを頂けるように精々頑張るんだよ。」

そう言って母は笑っていた。

不敬罪に問われかねない発言だが、私はそれが真実なのだと理解した。

父母は優れた所の無い私を体良く厄介払いしたかったのだ。

その欲に濡れた目にはもう私など映ってはいないようだった。


 後宮入りしてもちろん王子様の目に留まる事など無かった。

でも後宮入りをしたことは私にとっては幸せだった。

日がな一日、本を読むことが出来たし、お稽古事を強要する母も居ないのだ。

庭いじりが出来ないのがたまに傷だったくらいの事だ。

何故か友達には困らなかったし、穏やかな生活に満足していた。

だから下賜という話が出た時、私の気持ちは荒れた。

せっかく手に入れた安息の地から引き離される…その事に悲しみというより、怒りを感じていた。

けれど、ただの側妃…しかも、一度もお手がつかなかった私に否やを言う権利など無い。

私はアディソン伯爵というお爺さんに嫁ぐ事を告げられた時、心に浮かんだのは諦めと期待だった。

普通に夫婦として絆を持つ事は出来ないだろうという思いと、ひいお爺様とエミリの様な穏やかな主従関係が築けたらという思い。

けれど、先ほどそれは間違いだと理解した。




私は彼に恋をした。


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