鐘鳴
「中村です」
ナオコが電話口に名乗ると、すぐに「お疲れ様です。保全部の大村です」と固い声が聞こえた。
「青山近郊に〈虚像〉の発生が感知されました。2課1班に対処をお願いいたします」
「わかりました」と答えて、電話を切る。
オフィスの中が、一気にあわただしい雰囲気になった。全員に出動命令がかかったらしい。
「いったいなんなんだ? 大量発生か?」
ケビンはリュックをかつぎながら、ナオコに話かけた。
「最近すっかり落ち着いていたのによ」
「どうしたんだろうね」
仲間たちは続々とオフィスを出ていく。ナオコとケビンも社屋を出て、社用車に乗りこんだ。
普段は電車移動が基本だが、夜の間だけは、もっぱら車移動である。
ケビンが運転席に乗りこんでエンジンをかけるあいだ、ナオコは保全部から届いたメールに添付されていた地図を確認した。
出現場所を確認すると、近郊にある大学の校内だった。
「大学だ」
「はぁ、また辺鄙なとこに出るな」
ケビンがアクセルを踏みながら言った。
「この時間の大学ってったら、どうなんだ? 人が多いもんなのか?」
人が多ければ多いほど〈虚像〉は出現しやすい。
「どうだろう」と、ナオコは首をひねった。
「19時を回ったばかりだし、異常種ではないと思うけど……」
車通りのない住宅街を抜け、青山通りへと出た。
帰り道につく人々がビルの影に埋もれるようにして歩いている。
「ここらへんか」と、ケビンがつぶやいた。
いったん路地に入って、パーキングエリアに車を停める。二人はそこから大学へと歩いた。
大学の門前は、にぎやかだった。ちょうど最後の講義が終わったようで、若者たちが門をくぐり抜けていく。
ナオコとケビンは、そのあいだを何食わぬ顔をして通りすぎた。
詰所にいる警備員は、一瞬だけ彼らを目で追ったが、すぐに肩をすくめて下を向いてしまった。
11月も二週目にかかったが、気温は高い。ここちよい夜風が、綺麗に整えられた木々を揺らしている。
「こっちだな」
ケビンが道の先を鼻でさした。
道なりに進んでいくと、右手に古めかしい建物が現れた。アーチ形のガラス窓のうえに、ささやかな十字が掲げられている。
寒気が二人の背中を這った。人影がなくなっている。
〈鏡面〉に入ったのだ。
「アイ」
教会の鐘が鳴ったのだろうか、とナオコは誤解した。頭上から降ってきたその声は、それくらい澄んだ音だった。
「アイ、アイ」
教会の柱の影から、声が聞こえた。ナオコとケビンは身構えて、視線を向けた。
現れたのは、白い人型のなにかだった。身長は低く、頭部らしき部分に輝く瞳が埋まっている。細い帯が被さるように、上から流れ落ちていて、ナオコはそれを長い髪の毛であると認識した。
「……〈虚像〉だよな?」
ケビンが低い声でたずねる。
山田が対峙していた赤ん坊の〈虚像〉を思いだしながら、ナオコはうなずいた。
〈虚像〉は、建物の影にじっとたたずんだまま、ナオコたちを見つめていた。他の〈虚像〉たちの濁った瞳とはちがい、その目のなかは澄んでいて、水晶玉のようだった。
「ホシイ」
頭部の口元あたりが動いた。「ホシイ」ともう一度言う。
「あの蛇どもと一緒だ」と、ケビンが独り言をいった。喋る〈虚像〉と相対するのは、二人とも、あの時以来だった。
ナオコは、この〈虚像〉に謎めいた既視感を感じていた。
いっそ清廉とも言えるほど、白く美しいすがたを前に、彼女は記憶をたぐりよせ、目を見開いた。
「アリス?」
ナオコは思わず呼びかけてしまった。
彼女は直感的に、この〈虚像〉の白い輪郭と、いつか由紀恵と観たVTRに映っていた少女のすがたを重ね合わた。
真っ白な顔面についた二つの水晶玉が、ナオコを映しだした。
そこには、知性の光があった。
〈虚像〉は、ゆっくりと腕をあげ、のどに手をあてると、おもむろに首を横に倒した。
「Beware of the Carol」
〈虚像〉の首は、どんどん傾いていく。それにつれて、瞳にやどっていた光が失われていく。
「Beware of theアア、Beware、Beware、ア嗚呼」
頸椎の折れる音が、ナオコとケビンの耳にまで聞こえた。骨が砕け、頭部がだらんと垂れた。
「ホシイホシイホシイホシイ」
声が降ってきた。美しい声だ。
「モットモットモット」
〈虚像〉は、壊れた体のまま、淡々と、回転数を増すモーターのように口を動かした。
「モットモットモットモットキミキミキミキミノノノノノノノノノノノのののNおののお」
「おいっ、行くぞ!」
ケビンが夢から覚めたように叫んだ。
精神分離機の申請をすると、彼の手に騎兵銃が出現した。ナオコもそれにつづいて、ゴルフクラブをしっかりと握りしめた。
〈虚像〉の口が開きっぱなしになり、灰色の血があふれた。
超音波のような悲鳴が止まった。
「モット、アイ、ホシイ、キミノ」
〈虚像〉の体が、半分に割れた。ナオコは映像で観たアリスのすがたを、まざまざと思いだした。
白い身体は、きれいな断面をのぞかせて、にわかに泡立った。泡がはじけて、襞が飛び出た。
いくえにも重なった襞が大きく開き、巨大なカーテンのように、夜空へと展開していく。
「こちら1課2班、相浦! 異常種が出現した。応援を頼む!」
ケビンの怒鳴り声がひびく。
「おいっ、中村! 撤退するぞ」
ケビンに肩を叩かれたナオコは、こくこくとうなずいて、きびすを返そうとした。
しかし目を離したすきに、空間の様子は一変していた。
真っ白な布が、背中合わせになった2人の周囲をかこんでいる。
「ど、どうやって撤退する?」
ナオコは冷や汗をかきながら、クラブの柄をぎゅっと握った。
「知らねえよ! どうにかする!」
ケビンが左右に視線を動かすが、風にはためく布には、少しの隙も見当たらない。
やがて白いカーテンがくるくると巻きあがり、一つの形状をつくった。