鈴鳴
山田は「俺からきちんとマルコ殿に説明しておく。心配するな」と、ナオコをはげましてくれた。そう言う彼は青ざめていて、不安に駆られたが、彼女はうなずいてみせた。
山田は手の傷の処置を行ったあと、執務室へ向かった。
ナオコはとりあえずオフィスへと戻ることにした。
ナオコがオフィスの扉をあけると、いっせいに視線がささった。
時刻は18時半をまわり、とっくに退社時刻を過ぎているため、部屋にはだれもいないはずだった。しかし、ケビンと山田の乱闘を見物していた全員がその場に集まっているのか、七、八人の〈芋虫〉たちがくつろいでいた様子だ。
彼女は自分が渦中の人物であったことを思いだした。
「うまくやったか?」と、話しかけてきたのは、ケビンだった。彼は目をきらきらさせていた。トレーニングルームでナオコに頭をはたかれたことなんて、とても気にしていなさそうだった。
「うまくやった? どういう意味?」
「だから山田の手ぇひいて、どっか行ったじゃねえか。うまくやったのか?」
ナオコは、もう一度彼を殴りたい気持ちになった。しかし、彼が自分のために、あの大立ち振る舞いをしてくれたことを思いだすと、怒りもすぐに冷め、呆れのほうが大きくなった。
「ケビン……」
ナオコにも、いろいろと言いたいことはあった。
自分に発破をかけるために、あの方法はいかがなものか、とか。山田にケガをさせたこととか。たんに山田への憂さ晴らしのためにやったんじゃないか、とか。
しかし、これらの苦言を伝えるための精神力はいまの彼女にはなかった。
なので、彼の頬を精一杯つまみあげた。
「いででででで」とケビンがわめく。
「あにすんだよ!」と暴れるので、手をはなす。
「いまのでチャラね。もう、ああいうことしちゃダメだよ。山田さんにも、ちゃんと謝って」
「なんで俺がアイツに謝らにゃならねえんだよ!」
ケビンが心底心外だ、というふうに言うので、ナオコは「当然だ」と、叱ろうとした。
しかしそれより前に「それはおまえ、山田に迷惑をかけただろう」と、〈芋虫〉のひとりが口をはさんだ。
「あいつ、おまえを怪我させないように相当気つかってたぞ」
「最後キレたときは、さすがに力が強かったが」と、はす向かいに座った一人が笑った。
「でもおまえのこと気にしてたんだよ」
「そもそもケビンが中村に喧嘩ふっかけたのが悪いだろ」
「あれは山田と戦うためのフリだろ?」
「は? ケビンって中村のこと好きだったのか?」
ケビンが鬼のような形相で「ちげぇよ! 誰がこんな歩く綿棒みたいな女好きになるかよ」と言ったので、ナオコはその頭をはたいた。
「……それで、うまくいったのかよ?」
ケビンは唇をとがらせて、話題をもどした。
「こんだけやってやったんだからよ。進展はあっただろ?」
ナオコは押し黙った。彼の言うところの進展はない。
彼女は、ぱしんとケビンの肩をたたいた。
「進展したよ。わたしが、だけど」
これで伝わってくれるだろう、とナオコは思った。
「そうか」
案の定、彼はうれしそうにした。ナオコは、本当に彼を憎む人間なんていないだろうと思った。馬鹿正直というか、まっすぐな男なのだ。
「ブージャムっつーのは、タッカーもなのか?」
奥の方に座った〈芋虫〉たちの会話が聞こえた。
「らしいな。まあ山田にかんしては、化物みてぇだとは前々から思ってたが、しかしあの〈アリス〉の子供とは」
「逆に日本支社で、これまで知っている人間がいなかったのが不思議だな」
「マルコさんが止めていたんじゃないか? あの人結束を大切にするし」と、ナオコたちの前に座っていた一人が口を出した。
「それは一理ある」
「やっぱり日本なんて辺境の土地だから……」
ナオコはケビンの顔をじっと見た。
彼は気まずそうに「話した」と、親指をオフィスに向けた。
「いずれ判明することだしよ」
彼のことを責められず、ナオコは「そっか」とうなずいた。
オフィスはざわめていているが、そこに心配したような露骨な嫌悪感は見られなかった。ただ納得したような雰囲気がただよっていた。特殊警備部に変わった経歴の人間が多いため、それほど動揺を生まなかったものと見えた。
「逆に山田たちは、なんでいままでこれを話さなかったんだろうな」
ふとだれかが疑問を呈した。ナオコはぎくりとした。
「そりゃあ、化物だと思われるのが嫌だったんじゃないか? アリスは一応〈虚像〉なわけだし」
「だがこちらの世界に来た〈虚像〉が人間になるのは自明のことだろう? 人間離れしていることを気味悪がられるほうが、よっぽどじゃないか」
「たしかになあ」と、ケビンがうなずいた。
「ま、アイツは俺らのこと、信頼していないからなあ……」
ナオコは口惜しい気持ちになった。山田は彼らを信頼していなかったが為に、本当のことを話さなかったわけではない。
理由はいくつか考えられる。そのうちの一つが、彼がブージャムであるがゆえに背負っていた任務を隠すためだろう。
異常種のなかでも人間にまで進化した〈虚像〉の存在は特殊警備部にたいして隠されている。
ナオコはそこまで考えて、妙に心地悪くなった。
山田はブージャムとして異常種に対処していた。異常種の存在は〈芋虫〉にとってあきらかだが、彼らが可能なかぎり処理をしている。
それは、なぜだろう。
もちろん〈虚像〉が〈鏡面〉のなかで人間に進化することを知られたくないからだ。
山田がかつて対応していた赤ん坊のように、人型にまで進化することを知られると、問題なのだ。
なぜ〈芋虫〉に知られたくないのだろう?
「ケビン」
ナオコは、ふいにたずねた。
「由紀恵さんが精神分離機を嫌っていた理由って、聞いたことある?」
「あ? なんだ急に」
彼は何回も聞いたから覚えているというふうに、すぐに話した。
「精神エネルギーを操作するっつーことは、より〈虚像〉に近づくことになるから、それが気味悪ぃって言ってたよな」
そうだ、そう言っていた。
ナオコは過去をさぐった。
より〈虚像〉に近づく、とは言い得て妙だと思った。気味が悪い話だと思っていた。だが、深くは考えなかった。考えすぎだろうと思っていた。
だれかのスーツのポケットから、着信音が鳴った。つづいて、その隣の机に置かれていた携帯が震えだす。鈴なりに着信が来て、部屋が音でいっぱいになった。
〈芋虫〉たちはぎょっとした顔を見合わせた。全員の電話から、呼び出し音が鳴っている。
ナオコとケビンも、あわてて電話に出た。