発火
一番はじめに動いたのは山田だった。彼は弾かれたように立ちあがり、マルコの肩をつかんでマネキンを回すようにくるりと回転させた。
「前をしめろ」と、ナオコに指示をすると、自分は彼を外へつれだした。
彼女は言われるがままにシャツをしめ、不気味な沈黙のながれる扉の外を、そっとのぞきこんだ。
日が沈んだあと、この場所は気温が下がる。寒々しい裸電球のぶらさがる扉の横に、彼らは向かいあっていた。マルコは本当にマネキンになってしまったような無表情で、それをのぞきこむ山田は途方にくれた様子だった。
「マルコ」と、彼は敬称をつけずに呼んだ。
「ごめんね、じゃまして」
マルコは眼球すら、ぴくりとも動かさなかった。
「聞いてくれ、彼女は俺に血を分けてくれていただけだ」
山田は緊張した様子で、ゆっくりと話した。
「大丈夫。わかるよ。山田くんは、ナオコくんに血を分けていただけ」
「逆だ。彼女が俺に血を分けていたんだ。おい、落ちつけ」
山田がマルコの肩をゆする。
ぼんやりとした焦点が、だんだんと定まってきた。
「……リリーくんに部屋のことを聞いたんだけど」
マルコは、ふいに正気にかえった。
「こんなところにあるなんて、知らなかったよ。もっと早くに話してくれてもよかったのに」
山田は面食らった様子だったが「申し訳ない。ただ、本社の指示だ」と、すぐに返答した。
「本社の指示ね。なるほど」
マルコはこくんとうなずいた。
「ぼくの見張りってことだ」
「……ああ」
「血を吸うっていうのも、アレだね。精神分離機の副作用だろ?」
山田はわずかに動揺した。
「うん。いい方法じゃない? むこうでは衛生面のリスクとかを考えて、あまり推奨されていないけれど、気心の知れている相手ならまあ大丈夫だろうし。それに」
マルコは、紙面を読み上げるような単調な声でつづけた。
「盛り上がるよね。アブノーマルで」
山田のほおから血の気が失われた。
口をひらこうとした彼を、マルコが止める。
「もうなんにも話さなくて大丈夫だよ。分かっているからおっけー、ナオコくんがぼくに言わなかったこともおっけー。オールグリーン。山田くんの精神分離機の数値超過に関しては、さっきリリーくんに聞いた。本社の指示だね。おっけー。オールグリーン。アルフレッドがぼくに言わなかったのは、ひとえにぼくを危険視していたからだ。おっけーおっけー。ごめんね、山田くん。いままで君一人に重荷をせおわせて。まあぼくが信頼にたりる経営者じゃなかったことが問題なわけでこれからは改善しないとダメだねアルフレッドがいなくなったいまそれを証明する相手も術もなくなったわけだけどそれはぼくが信頼されていなかったことが悪いわけでしかたがないよねおっけーおっけー大丈夫あれ山田くん顔色わるいけど大丈夫? 血、吸ったほうがいいんじゃない? ナオコくんのだけど」
マルコは、壊れたスピーカーが突然音を鳴らさなくなるように、沈黙をまもった。
山田は生ける彫像のように固まっていた。
扉の影から二人を見守っていたナオコも青ざめていた。
は乾いた空気に満ちていて、後ずさったマルコの足音をよく響かせた。
「ごめん、また改めて邪魔するよ」
ふらりと歩きだす彼の肩を、山田がとっさにつかんだ。
フライパンを叩き落としたような音がして、ナオコの眼前をぱらりとコンクリートの破片が落下した。
山田が壁のまえにすわりこんで、顔をゆがめていた。
マルコは片手をあげた姿勢のまま、呆気に取られていた。彼はただ、手を振り払っただけだったのだ。
山田の左手が再び出血しはじめたのを見て、ナオコはあわてて駆け寄った。マルコは、その姿を驚きの眼で追いかけた。なおこくん、と口が動いた。
彼女はおそるおそるマルコを見あげた。
マルコの口元に、得体のしれないものがよぎった。左右から釣り針で無理やりに引き上げられたような笑顔である。
それを見た彼女は、本能的な恐怖をおぼえた。目の前にいる彼はだれだろう。そんな思いが去来して、彼女は無意識に山田の服をつかんだ。
マルコの笑顔が失われた。
彼は怯えた様子のナオコをみとめると、ぽかんとした。そして、そのままよろよろと道なりに進んで行ってしまった。
今度こそは山田もナオコも、彼を止める気になれなかった。