もう火のつかないライターは危険
山田は視線を泳がせて、口をひらいては閉じていた。
ナオコは覚悟をきめた。いまさらそんなことを言って、などときつい言葉が返ってくるのは仕方のないことだ。
しかし予想外に彼は「よかった」とつぶやいた。
「後悔していた。君を信頼していないと言われて、その通りだと思った。愛想をつかされてもしかたがないだろう、と。だから、そう言ってくれて嬉しい」
彼は安堵の笑みをうかべた。
「言葉にしても伝わらないかもしれないが、俺も君を信頼している。ああ、仕事内容には期待していないが……他の部分は全面的に」
ナオコはようやく肩の力がぬけた。そして、つい吹きだした。
「仕事内容には期待していない、は言わなくてもいいですよね?」
要らない言葉をつけたすのが彼の性と知っていても、なんだかおかしかった。
山田は真顔で「仕事に関しては、君はフラフラしすぎだからな」と、言った。
「相浦とうまくやっているようだが、アイツは猪突猛進の馬鹿だ。君がしっかりしないと……」
ナオコはムッとしながらも、久しぶりに口うるさく言われるのを嬉しく思った。
「フラフラしているのは山田さんのほうじゃないですか。ちゃんとリリーから血をもらっているんですか?」
彼は一瞬だまってから「ああ」と、うなずいた。
「うそですね?」ナオコは目を三角にした。
「なんで飲まないんですか! だいいち、このあいだ会ったときは健康そうだったじゃないですか」
彼は観念したように両手をあげると「あのときは、保全部から〈焦点〉のために用意したものを拝借した」と話した。
「なんでリリーからじゃ嫌なんです」
「嫌なのではなく、ブージャムの血は効かないんだ」と、彼は肩をすくめた。
ナオコはそれに納得したが「それなら、よその女性の血でいいじゃないですか」と、ほおをふくらませた。
「心配ですよ、さっきみたいなことがあると……」
山田は困り顔をしたが、正直に「吸血鬼みたいで嫌なんだ」と話した。
「もちろん、定期的に飲んではいる。あまり気がすすまないだけだ」
ナオコは唇をとがらせた。彼の気持ちも分からないでもない。だがギリギリにならないと飲まないというスタンスでは、先ほどのように、いざというときに体調を崩すことがある。
取引の復活を提案したいと、彼女は思った。しかしリリーの存在が頭をよぎり、言葉が出てこない。
「山田さん、リリーはどうしたんですか?」
彼は、いまさらなにを聞いているのかというふうに片方の眉をあげて「マルコ殿のところだ」と言った。
「こちらに来てしばらく経つから、その感想や意見なんかを話しに行くと言っていた」
「そうなんですね……」
ナオコは迷った。取引を再開させたら、リリーは怒るに違いない。彼女は吸血のことを知らない様子だったが、もし知るところとなったら、今度こそ彼女は怒り狂い、一度は下げたナイフの先を自分に向けてくるだろう。
それでも、もう後悔はしたくなかった。
「山田さん、取引再開しませんか?」
山田は、その言葉を予想していた様子だった。苦笑いをして「君は、もう俺にHRAに居ることを認めてもらう必要なんてないと思うが」と話す。
「心配なんです」と、はっきり口にする。
「だから、わたしのためだと思って」
「君のためにはならんだろう。メリットがないのだから、取引にならないぞ」
「だから、あなたが心配だからって言っているじゃないですか。メリットとかじゃなくて」
山田は目をぱちくりさせていた。
おそらく彼は、自らのために行動される経験がないのだろう、とナオコは思った。
「……好意でするんです」彼女は、いくぶん声を低くした。
「だから、ありがたく受けとってください」
「こうい?」
彼女は深いためいきをつき、実力行使に出た。途中まで留められたボタンを、今度は自分の指で外していく。
「なにをしているんだ」山田は困惑の声をあげた。
「もう血は要らんぞ」
「いいえ、要るはずです。少ししか飲んでいないでしょう」と、彼女は今しがた付いた傷を、彼に見せびらかした。
「飲んでください。あなたは自分が思っている以上に弱っているんです。言い訳はさせません」
「なぜ君がそんなに意固地になるんだ」
彼はほおをかいて、顔をそむけた。
しかしナオコは、その視線が揺らいだのを見逃さなかった。
「わたしのこと、全面的に信頼してくれるんですよね?」
「……仕事以外はな」
ずいっと顔を近づけたナオコに、山田はしぶしぶ答えた。
「じゃあ信頼してください。わたしがあなたを心配して、こうしていることを」
彼はついさっき放った言葉を否定できなかったのか、ほとほと困ったような表情をした。そして自分が吸血をしないかぎり、彼女が胸元をはだけたままでいると気づき、大きなためいきをついた。
「彼氏にそういう迫り方はやめたほうがいいぞ」
悔しまぎれの言葉を言って、顔を首元にうずめる。肌にくすぐったい髪の感触がした。
ナオコは薄暗い気持ちになった。メリットは自分にもあるな、と思ったのだった。
こうして彼に触れる時間を、ほんの少し持つことができる。
気持ち悪い、と内心で自分を卑下して、そっと彼の背中に手をまわした。
この気持ちはきっと伝えられないだろう、と彼女は思った。それでもよかった。
彼の心にこれ以上近づくことが難しいとしても、信頼していると言ってくれただけで、すべてが報われていると思えた。
あとは、彼を見ていることさえ許されるなら、それでかまわない。
思いをめぐらせているナオコの頭上で、ばたんと音がした。彼女は、思わず顔をあげた。歯があらぬ場所に当たったのか、山田が口を離して「悪い」と、謝罪をした。
時間が停止した。
いきなり北極に放りだされたような極寒の沈黙が、部屋をつつんでいた。
マルコは扉の取っ手に指をかけたまま、二人を見下ろしていた。顔面から、ありとあらゆる表情が失われていた。