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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れる男の夢
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もう火がつかなくても

「義父?」


 ナオコが聞き返す。山田は気まずそうに説明した。


「十歳のときから七年間、HRA本社につとめる〈芋虫〉のところで養子として世話になっていた」


 彼は話す気になったのか、姿勢をなおして「相浦の見立ては正しい」と言った。


「彼は元グリーンベレーで、俺は師事をうけていた」


 ナオコはぴんときた。


「その人がもしかして」


「ああ、マルコが聞いた、HRAに殺されたという俺の父親は、彼……エリオットのことだろう」


 その名前を言うとき、彼はなつかしそうにほほえんだ。


「七年間もその人のところでお世話になっていたんですか」


「そうだ。まあ義父といっても、ほぼ監視役みたいなものだったが。俺は、あの時初めて出現したブージャムだったし、本社としても持てあましていたんだ。そこをエリオットが世話をすると言いだしたらしい。いい厄介払いだ。まあ、奴もろくな男じゃなかった」


 山田は喉の奥で笑った。


「退役軍人だった。湾岸戦争で活躍して、すっかり戦争が嫌になったらしい。金遣いが荒いせいで首が回らなくなって、泣きついて得た仕事が、当時発足したばかりのHRA特殊警備部で化物と戦う仕事だ」


 彼は思いだしながら、話をつづけた。


「気が短くて、乱暴者だった。すぐに大家に喧嘩をふっかけるから、頻繁に住処が変わった。酒場で女性をひっかけて、連れこんできたと思うと、リビングでおっぱじ始める。そんななか、俺が帰ってくるとタバコを買ってこいと財布を投げつける」


 ナオコはだまって話を聞いていた。悲惨な内容に聞こえたが、山田は優しい顔つきをしていた。


「変わったのは、十五歳の時だな。急に学校へ行けと言いだした。教養もない男はこれからの時代ダメだなんだとわめいて、俺を夜間学校へ追いやった。算数も歴史も知らなかったから大変だったが、しばらくしてから俺を学校へやったのは奴の考えではなく、当時、思いを寄せていた女性の提言だったとわかった」


 そこで山田はナオコの胸元に目をとめて、気まずそうな顔をしたあと、シャツのボタンを留めはじめた。自分で留めると言おうかと思ったが、まるで小さい子供を相手にするように丁寧に指を動かしているので、彼女は言葉をのんだ。

 山田は視線をボタンに向けたまま、口をひらいた。


「彼女は〈鏡面〉研究の第二チームに所属していた。エネルギーの流動について観測する部隊だ。とても優秀な研究員で、KOOLを一日に三箱消費していた。それを真似してエリオットもあれを吸うようになった。まったく馬鹿だと思った。彼女は優秀な研究員で、やつみたいな猪武者を相手にするわけがなかったんだ」


 彼のジャケットのポケットに白い箱が入っていた。『KOOL』の文字がのぞいている。

 ナオコは彼の指先のあたたかさに、そのエリオットという男を思った。


「彼女が死んだのは、ごくありふれた事件によるものだった。当時〈鏡面〉で〈虚像〉が発生する兆候をつかむためのデータは出そろっていなかった。研究員一名と護衛の〈芋虫〉が食い殺されたからといって、葬儀は行われない。エリオットが彼女の死を知ったのも、一週間後の話だった」


 首元のボタンに指がかけられた。しかし彼の人差し指は、ためらって動かなかった。


「アルフレッドに抗議したエリオットは、自分が誰によって生かされているかなんて忘れていたんだろう。銃を持ち出して暴れたせいで、記憶処理の罰を受けることになった。当然〈芋虫〉は免職だ。彼は最後に俺に会いに、一日だけ帰宅する許可をえた。あの日、奴は奇妙だった。いつになく優しくて、俺の名前についてたずねた。どうして、シホなんて珍妙な名前なんだってな」


 彼の首元をじっと見つめる。うすくなっていく文様は忌まわしいが、きれいだとも思った。


「……女の子の名前、みたいですよね」


 彼は目をあげた。うすい茶色がすけて、一瞬だけ不思議な虹彩になった。


「だろう?」と、無邪気に笑う。

「志を保て、という意味らしい。俺には、おおげさに過ぎる名前だが……気に入っている」


 ナオコは、ここ一カ月ばかり空いていた穴を、透明な水が満たしていく錯覚をおぼえた。透きとおった、冷たい水だ。

 彼は話をもどした。


「記憶処理は翌日の朝、行われる予定だった。玄関口までエリオットを送りだした。記憶を失えば、奴はHRAに入社する前の人間に戻る。すべてを忘れる。『口はなんのためについているか知っているか』と、奴が聞いてきた。こんなときになんの冗談かと思ったから『閉じておくためだ』と答えると『おまえは馬鹿だ』と笑われた」


 彼の口元に、おだやかなほほえみが浮かんだ。


「靴箱のなかにピストルが隠してあった。治安の悪い地域にいたからな、護身用だ。やつはそれを取り出すと、口の中につっこんで、撃った」


 ナオコはぼうぜんとした。しかし彼は笑んだままだった。


「幸運だったのは、扉を突きぬけた弾がだれにも当たらなかったことだ。やつは強盗に襲われて死んだ、ということになった。まあ身内なんていなかったから、理由なんてさしたる問題にはならなかったが」


 ナオコは顔をわずかにゆがませて、彼を見すえた。


「馬鹿はアイツだ。口がついているのは、喋るためでも黙るためでも、ましては銃をつっこむためでもない。食うためだ。次の日も生きるために、食事をするために、すべての生き物には口が付いている」


 ナオコは彼の口元に、指をのばした。唇の端に、少しだけ血がついていた。こすると赤とも茶色とも言い難い痕になった。きれいな色ではなかった。だが、きれいでなくとも構わないと思った。 


「わたし、山田さんがブージャムだって聞いて、あんまり驚きませんでした」


 彼女は、ぽつりぽつりと話しだした。


「化物じみているからか?」


 彼は素直な口調でそうたずねた。卑屈さもなにもない、そう言われ慣れている者の自然な疑問だった。


「ちがいます」と彼女は否定した。

「初めて吸血をされたとき、山田さん言いましたよね。HRAは人間に人間を殺させないって。そういう意味だったんだって思いました。あなたは、自分で自分を人間あつかいしていない」


 ナオコは心のなかをそのまま口にした。


「驚きませんでしたよ。でも嫌だなって思いました。あなたは、これ以上ないほど人間じゃないですか。どうしてわたしに、そんな昔の話をしてくれるんですか」


 彼は答えに窮した。それを見て、ナオコは胸がえぐられるような気持ちだった。これまで、この話を一切言葉にしてこなかったのではないか、という直感が働いたのだ。悲しみが風化して、おだやかに話せるようになるまで、彼は痛みも苦しみも抱えたまま歩いてきたのだ。

 そんな様子が人間らしくないはずがなかった。だから、するりと言葉が出てきた。


「……うそです。あんなの」


「うそ?」


「お節介だなんて、思っていません。ただわたしは、山田さんがリリーと組んだほうがいいんじゃないかっ

て、それに、妹さんと一緒に仕事がしたいのかなって、バカみたいな考えで」


 山田はぽかんとしていた。


「待て、それは」


「だから、その、もういいんですけれど。わたし謝らなきゃってずっと思っていたから、山田さんとバディを組むのが嫌になったわけではなかったって」


 ひどいことを言ったから、とナオコは拙い口調で伝えた。

 ずっと抱えていた懸念は、いざ口にすると、想像以上にくだらないことのように思えた。


「あなたを信頼していたし、わたしは、今でもあなたを信頼していますから」


 彼女はきっぱりと言った。

 それを伝えてどうするつもりかなんて、分からなかった。ただケビンが自分に示したことは、こういう意味だろうと、彼女は思った。今、自分は山田に対峙している。傷つくことなんて、考えないままに。


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