もう火はつかない
「おい!」と、ケビンが驚いた顔で呼びかけた。せっかく感情的にさせようとしていたのに、と言いたげだ。
「このバカ!」
ナオコは半泣きで彼の頭をぱかんと叩いた。
「いてえ!」
「あとで言い訳は聞くからね!」と言いのこし、山田の腕を引っぱる。ギャラリーは、ぽかんとしながら事件の行く先を見ていた。彼らをにらむと、ささっと横に割れたので、トレーニングルームの外へ出た。
「中村!」と背後からケビンの呼ぶ声が聞こえたが、怒りと心配でいっぱいで、振り返ることすら彼女にはできなかった。
山田の首元には、もうはっきりとあの模様が浮き出ていた。蒼白な顔をした彼をエレベーターに押しこむ。扉がしまったとたんに、息苦しそうな呼吸が聞こえた。
「大丈夫ですから」と言い、左手の傷を検分した。深さはなさそうだが出血がひどい。
玄関を出た。警備員が引き留めようとしたが、鬼気迫る顔の彼女をみると、言葉をひっこめた。
「……ナオコくん」と山田がかすれた声をもらした。「処置は自分でどうにか」
「だまってください」
「きみは、戻ったほうが」
「いいから、だまってください」
山田は口を閉ざした。
駐輪場の奥に向かい、一カ月ぶりに彼の私室への道を進む。山田に扉を開けさせ、久しぶりに見た部屋に入る。以前とさして様子は変わらなかった。
部屋についたとたんに、彼は気が抜けたのか、玄関前にすわりこんだ。
ナオコは急いでシャツのボタンをはずした。肩をはだけさせて、上体をよせる。「ほら」と心配そうに彼の頭をかかえた。
「飲んでください」
彼はしばらく嫌がるように顔をそむけていたが、やがて抵抗しきれなくなったのか、口をそっと肩につけた。慣れた痛みが肌に埋まっていく。苦し気な呼吸がだんだんと治まる。
吸血を終えて、彼は口元をぬぐった。ナオコは顔色をたしかめたあとに、ぱたぱたと机のほうに向かった。そして救急道具をひとそろえ持ってくると、左手の処置をはじめた。
山田は憮然とした様子で彼女の行いをながめていたが、あわてるあまりに消毒液を床にこぼしたのを見て、目をふせた。
「落ちつけ」
ナオコは、そこでようやく我にかえった。山田の発作に気付いてから、得体のしれない衝動が体を突き動かしていたのだ。
「ご、ごめんなさい」
ナオコはこぼれた消毒液をふこうとガーゼを手にとり、それも落とした。
山田が彼女の両肩をつかんだ。
「落ちつけと言っている」
真正面から目をすえられて、ナオコは固まった。こんなに接近したのも久しぶりだった。
「君も怪我をしているだろう。ほら」と、右腕を示される。シャツが赤くにじんでいた。
山田はケガの処置をしようとして、手を止めた。ナオコはおろおろしながらシャツを脱ごうとした。
「待て」と止められる。
かちりと目が合って、いっせいに顔をふせた。
ナオコは顔をそむけながらシャツを脱いだ。今度は彼も止めなかった。もう少しまともな下着を着てくればよかった、と彼女はどうでもいいことを思った。
彼はなるたけ肌を見ないようにしながら、腕の消毒を行い、すばやくシャツを羽織らせた。どちらともなくため息をつく。
「……相浦はいったいどうしたんだ」と山田が疲れたように言った。
「馬鹿だとは思っていたが、俺と戦ってどうするつもりなのか、まるで分からない」
ナオコはすぐに返答ができなかった。おそらく彼は自分にむけて、あんなことをしたのだ。
ケビンは山田にたいして、くすぶっていた全ての気持ちをぶちまけた。おまえもこうしろ、と示したつもりに違いない。
ありがた迷惑だった。彼女は内心で馬鹿正直極まりない相棒をなぐった。決意を表すためとはいえ、あんなことをしでかすとは想像もしていなかった。
言葉をにごらせている彼女に、山田は別の話題をふった。
「ブージャムのことは、君たちの知るところとなったんだな。リリーから聞いたのか」
ナオコはどきりとしたが、彼はおだやかだった。
「リリーから、あと、マルコさんから聞きました」
「そうか」
彼はひとつうなずくと、言葉を探したすえに「驚いただろう」と言った。
「……酔わない体質なのに、勝負をしかけてくるなんてひどいなとは思いましたよ」
山田は苦笑いをうかべて「そんなこともあった」と言った。
「君には……いろいろ迷惑をかけてばかりだな。せっかくバディも解散できたというのに、またこんなことになった」
「迷惑をかけているのはこっちです。その、ケビンは」
ナオコは言いよどんでから、はあと再びためいきをついた。
「わたしのせいで、ああいうことをしたので」
山田は不思議そうに首をかしげたが、追及はしなかった。かわりに「あいつは変わったな」と、どこか感心したように話した。
「変わった?」
「ああ。以前は、不満があろうと俺に直接かみついてこなかっただろう。よりバカになったんだな」
その言葉は辛辣だったが、責めるような響きは一切なかった。
二人して口を閉ざす。
ナオコはためらっていた。言うべきことはたくさんあった。だが、なにから言うべきだろう。
先に口を開いたのは山田だった。彼はジャケットの胸ポケットをあさると、顔をしかめた。
「……壊れた」
「へ?」
山田はライターを取りだし、残念そうにした。
「火がつかない」
ああ、タバコを吸いたかったのか……と納得して、ナオコはなんとなく気が抜けた。こんなことがあったあとでも、彼はマイペースだ。
玄関口に向きあってすわっている必要もないのだが、どちらも立ちあがろうとはしなかった。
山田は壊れたライターをしまってから、ふいにナオコをみた。
「君は吸わないよな」
彼女は首を横にふった。
「そうか」彼はため息をついた。「まあ、吸わないほうがいい」
「……山田さんも吸わないほうがいいですよ」
「そうだな」とまるで堪えていない返事をして、彼はなにかを考えこんだ。そして「真似ばかりをしているな」と、つぶやいた。
「まね?」
「ああ、人真似だ」
意味がわからなかったので、ナオコは続きを催促するように見つめた。
なぜこの話題を振ったのか、彼は自分でも掴みかねているようだった。しかし、じいっと見つめつづけられて、しぶしぶ重い口を開いた。
「義父が吸っていたんだ」