直線の男
次の日の午後16時、ナオコは病院の待合室にすわっていた。いつもお世話になっている、HRAの息のかかった大きな病院だ。休み明けのため、さきほどまでは診察待ちをする人々で混雑していたが、いまは落ち着いている。
彼女は文庫本をめくりながら、時折受付にあるエレベーターのほうへ視線をむけ、見慣れた巨体がないことを認めると、また読書にもどった。
本日の仕事を終えたあと、ナオコがケビンを引き留めた。
「話したいことがあるの」と言うと彼は驚いた様子だったが、すぐに「悪いが、今日は用事がある」と断りをいれた。
ナオコは落ちこんだが「わかった」とすぐに引いた。必ずしも今日話す必要のあることではなかったからだ。彼は肩をすくめてその場から離れようとしたが、なにを思いついたのか立ち止まると「お前も来るか?」と誘った。
「どこに?」
「病院。見舞いに行こうと思ってたんだが」
「……いいの?」
ケビンは鷹揚にうなずいた。
「このあいだ、母ちゃんが中村さんは最近どうなんだってうるさかったからな」
ナオコは顔を明るくして「行く!」と元気よく答えた。
そういうわけで彼らは一緒に病院に向かい、ケビンの母親を見舞った。彼女は10年前に筋委縮性側索硬化症に罹患した。アメリカにいた時分よりも良い治療を受けられているらしく、非常にゆったりとした経過をたどっている、と聞いている。
ケビンと母親だけで話したいこともあるだろう、と思いナオコは病室から暇をしていた。
読書にふける彼女の目の前に大きな影がのびた。
「待たせたな」ケビンはぽりぽりと頭をかいた。
「ううん、ぜんぜん」
彼女は本を閉じると、カバンの中にしまおうとした。それをケビンがひょいっと取りあげる。
「……おまえ、本嫌いじゃなかったっけ?」
彼女は顔を赤らめた。
「嗜好が変わったんだよ」と、奪い返す。
「ふーん、ま、いいか。場所変えんぞ」
二人は病院の外にむかって歩いた。筋骨隆々のケビンは病院から浮いた存在だったが、だれも気にした様子はなかった。むしろ「相浦さん、こんにちは」としょっちゅうあいさつをされて、彼はそのたびに「どうも」と会釈をしていた。
庭に出ると、白っぽいうろこのような雲が空に広がっていた。風のない日で、何人かの患者が散歩をしている。生垣のそばにベンチが置かれており、彼らはそこに腰かけた。
「そんで、話ってなんだよ。くだらねえことじゃないだろうな」
彼は言葉づかいこそ乱暴だったが、おだやかな表情をしていた。母親と会っていたからだろう。
ナオコはせきばらいをしてから「ブージャムについて、話があるの」と切り出した。
彼はびくりと肩を揺らしたあと、探るような目つきをした。
「マルコさんに聞いたのか?」
「うん」
彼女が説明をしようと口をひらくと、手でさえぎられた。
「知ってる」ケビンが静かに言った。
「俺だってこの数週間、なんもしていなかったわけじゃない……山田とターカーのやつは、最初の〈虚像〉であるアリスの子供だっつうんだろ?」
「……どこから聞いたの?」
「俺はアメリカ本社の知りあいに聞いた。由紀恵が懇意にしていた元北京支部の人間だ。あっちではそこそこ知られているらしいが」
「ブージャムの存在が?」たしかにマルコもそう言っていたな、とナオコは考えた。
「ああ、上層部の人間と、すくなくとも特殊警備部は知っている。アルフレッドの評判のこともあるから、暗黙の了解のような扱いだったらしいが……そいつが死んだ今、どうなるかはわからねえってよ」
ケビンとナオコはおたがいに黙った。
「それで、どう思うの? ケビンは」
「……わかんねえよ」彼は乱暴に頭をかいた。
「本当に遺伝子操作だったなんて思っていなかった」
「まあ、そうだよね」
ナオコは空をあおいだ。あらためて整理をしてみると現実離れした話だ。自分たちは実際にアリスを見たことがない。それゆえに、山田とリリーが人間ではない別の生命体であるとは信じがたかった。
ケビンは「でも、いくらか信ぴょう性はある」とつぶやいた。
「あいつらの身体能力は鍛えてどうにかなるっつうレベルを超えてる。知能うんぬんは分からねぇが、こっちにきて一カ月もたってないタッカーがアホみたいにべらべら日本語をしゃべるところをみると、少なくとも記憶力は飛びぬけてる」
彼ははああっと大きなためいきをついた。
「本当に人間離れしてたっつーことだな」
「少なくとも、体は」
思わずそう付け足すと、彼は渋い顔をした。
「中身は人間だとでも?」
「……わからないけど。でも山田さんもリリーも普通の人だよ」
彼は反論するかと思われた。いまだに山田にたいする憎しみが消えていないのだから、ナオコもそれを覚悟した。しかし彼はすんと口を閉じて、考えこむような表情で庭の向こう側に目をやった。
そのとき「相浦さん家の」と、杖をついた老人が通りがけに話しかけてきたので、彼は「どうも」と頭を下げた。
老人はナオコとケビンを見て、にんまりと笑った。
「彼女さんを連れてきたんか。いいのう、いいのう」
ケビンは「いや」と否定してから、ためいきをついて「どうも」ともう一度言った。
老人が去るすがたを見守ってから、ナオコがくすっと笑う。
「あいかわらず、愛されているねえ」
彼はどんなに忙しくても週に一度は見舞いにきている。彼がなにかと病院の人に話しかけられている姿をこれまで幾度も見かけた。
「愛されてねーよ。たんに外人が物珍しいんだろ」
彼は仏頂面に気まずさを張りつけ、そう吐き捨てた。
「さすがにもう見慣れたでしょ」
「いや、見慣れてねえはずだ。だって俺、いまだにアメリカ人だと思われてんだぞ。何回ロシア人だって言っても伝わらねえ」
「それは伝わらないんじゃないかな……」
話がそれたことに気付いたのか、彼は眉をひそめた。
「……あいつらが人間か、それとも人間じゃないのかは問題じゃない。それよりもあの戦闘とブージャムが関連しているのかっつーのが重要だ」
ナオコはうなずいて「ケビンはそれについてどう思うの?」とたずねた。
「正直、わかんねえよ。〈虚像〉が喋るっつうのは、いくらか前例のあったことだ。だが、それだって威嚇の言葉ばっかりだろ。殺すだなんだってさ」
それは調べているうちにナオコも知ったことだった。〈虚像〉が話す事例はまれに存在する。大抵が異常種で、話す言葉は殺意にみちたセリフばかりだ。
「いきとし、いけとし、いかさず……あとなんだっけ、まつ? って言ってたような」と、確認するようにつぶやく。
「殺意の言葉といえば、そうかなあ」
ケビンはじーっと空を見上げていた。
「わからん。だが、山田が全部を知っていることは分かる」
ナオコは心のなかで同意したが、言葉にはできなかった。山田が異常種に対処していることや、ブージャムであることが、あの戦闘と関係がある可能性は高い。だが、だからといって彼の許可なく秘密を明かすことはできない。
「……ケビンは、すべてをあきらかにしてどうするつもりなの?」
それは心のなかにずっとくすぶっていたが、口にはできなかった疑問だった。由紀恵の死に傷ついている彼に、なんらかの意味を問うことはしたくなかった。
ケビンはだまった。どこからか鳥の鳴き声が聞こえた。彼は平和そのものの庭を眺めて「わからん」と小さく言った。
「由紀恵は、俺を助けて死んだだろ」
その言葉は暖かい陽光のなかに溶けていくような、平坦な声で告げられた。
「中村も聞いたかどうか知らねえが……由紀恵はずっとHRAに不信感をもっていた。俺はあいつがバカだと思っていたよ。マルコさんのことだって、精神分離機の開発が気に食わねえだけなんだろうなって。でも」
彼は唇をかんだ。ただ、その目にはもう怒りはなかった。
「もっと話を聞いときゃよかったんだ。もっと由紀恵の言い分を、聞くべきだった。俺は……」
彼は深呼吸をした。
「なあ、中村。俺は由紀恵が好きだったよ」