こころもとない卑怯
飯田はナオコを守るかのように斜め前に立ち、見知らぬ男を疑わし気に見た。
「どちらさま?」
彼はナンパを疑っているようだった。ナオコは 「彼は上司で」と、しどろもどろに紹介した。
「や、山田さんです」片手を山田にむかって差し伸べる。彼は顔面蒼白になった彼女を見て、ついで飯田に視線を動かしてほほえんだ。
「初めまして、山田志保と申します。いつも中村さんにはお世話になっております」
彼はすっと片手をさしだした。
「……初めまして、飯田達也と申します」
飯田は形だけ握手にこたえると、すぐに手を離した。笑みをうかべてはいるが、目がすわっている。
「ナオコちゃんとは……同じ部署なんですか?」
「ええ。彼女とは以前同じ班で活動しておりました」
「なるほど」飯田はナオコをちらりと見た。
彼女は大慌てで「それじゃあ、山田さん! また、今度!」と彼氏の背中を押した。
山田はそんな様子を見ると、一瞬だけくだけた笑みを浮かべ「それでは、失礼します」ときびすを返そうとした。
「ちょっと待ってください」
ナオコはびっくりして飯田を見あげた。真剣な面持ちをしている。
「同じ班、でしたか?」
「……ええ、以前ですが」
飯田がなにを考えているのか分かり、ナオコは青ざめた。
「い、飯田さん! 展望台! 混んでるから、早くいきましょう!?」
無理くりに腕を引っ張ると、力が強すぎたのか飯田がよろけた。
「ナオコちゃん」と非難がましく呼ばれるが、今ばかりは彼の言うことを聞くわけにはいかない。
「ね、急がなきゃ! 山田さんもお忙しいところすみませんでした! お仕事がんばってください!」
飯田の背中をぐいぐいと押す。これでも鍛えているので、力はそんじょそこらの女子よりも強い。
歩き去る最中にふりかえると、山田が見守っていた。目が合う。彼は目元を猫のように細めて、なにがしか話した。聞こえなかったが「きみこそがんばれよ」と言っているように見えた。
ようやく山田から離れられた。すかさず「ナオコちゃん」と飯田が向き直った。
「ごめんなさい。その、山田さん忙しいから……あんまり時間をとらせると悪いかと思って」
言い訳をすると、彼は表情を消した。
「あの人が、例の人?」
ナオコは縮こまった。
「れ、例の人って……」
「ナオコちゃんにお節介をかけたって上司」
いっそのこと、もっと怒りをあらわにしてくれたほうがありがたいくらい、冷静な口調だった。あっさりした物言いが逆に恐ろしい。
嘘をついても無駄だと思って「そうです」と肯定する。
「へえ、日本人? 外国の血が混じってそうな……」
彼は声をうわずらせた。
「ずいぶんかっこいい人なんだね」
「たぶんお母さまがアメリカの人? かな……かっこいいかどうかは、ちょっとわたしには分からないですけど」
「想像とずいぶん違ったな。もっと脂ぎった気持ちの悪い男かと」
ナオコはいよいよ怖くなった。飯田は普段もっと優しい言葉を使う。
「飯田さん、怒ってます……?」と、勇気をもってたずねると、彼は口をつぐんだ。そして目をふせて「そうだね」と言った。
「ナオコちゃんがあんな男に困らされているなんて気分が悪い。正直」
彼はいくぶん冷静になったのか頭をかいて「ごめん」と謝罪した。
「仕事のことに口出しして……でも、さっき彼、ナオコちゃんに手を伸ばしていたよね? それでなんだかカッとなっちゃって」
ナオコはあまりの申し訳なさにお腹が痛くなってきた。山田はあんな性格のわりにスキンシップが激しい。おそらく自分を妹のように思っていた名残だろうが、それを見られるとは間が悪い。
「あの人、アメリカ育ちだから」と言い訳にもならないようなフォローを入れると、想像通り飯田は「それは理由にはならないよ」とすげなく返した。
彼はこの話をつづけても無駄だと判断したのか、展望台に並ぶ列へと移動した。ナオコは違う話題をふろうとしたが、どうしてもうまくいかなかった。
ぎくしゃくしたまま高速エレベーターに乗り、展望台に登った。人がごったがえしていた。風景を眺める人々の群れの楽しそうな顔と対照的に、二人の顔は暗い。
なんとか窓辺の良い場所を陣取った。飯田の仏頂面がジオラマのように小さな東京と重なっていた。
彼は気まずそうに「ごめんね……おとなげなくて」と言った。
「いえ、わたしこそすみません」
「……彼、山田さん、だったっけ。以前同じ班だったって言っていたけど、組む相手が変わったの?」
「あ、そうなんです。つい先日ですがバディが変わりまして」
ナオコは彼がそれを知って安心するかと思った。しかし実際は、よけいに不安そうな顔つきにさせただけだった。
その理由は展望台で聞けずじまいだった。彼は急に明るくなり、別の話をしたがったのだ。どこか焦ったようなすがたに、ナオコも落ち着きをなくした、
そうして夜になった。
展望台を降りたあと、周辺の適当な店で夕飯をとった。そのころには、ナオコは彼が機嫌を直しているのかどうか分からなくなっていた。飯田はこうなってしまうと、人に内心を悟らせない性質だった。
ようやく彼の真意が分かったのは、夕飯をとって時計を確認したときだった。20時半だった。まだ帰るには早いが、明日は飯田も自分も仕事だ。
これは解散だろうか、と思いながら、なんとなく駅の方向に足をむけ、商店街を歩く。
飯田が立ち止まり、ナオコの腕をひいた。道にはちらほらとしか人がいなかった。店はほとんど閉まり、シャッター街と化している。
「ナオコちゃん」といやに真剣な声色で呼ばれる。
「はい?」
彼はさらに強く、グイと腕を引いた。背中がシャッターに当たり、がしゃんと音をたてる。
飯田は切羽詰まった様子だった。目元に影が落ちていたが、さきほどのむやみに明るい顔つきよりも雄弁にものを語っている目つきをしていた。彼はとても不安そうだった。
ふいに顔が近づいてきたので、ナオコは驚いた。気づいたときには口づけをされていた。あわいものだ。数秒だけ触れ合ったのち、彼は離れた。
「ごめん。なんだか、したくなっちゃって」
彼はほほえんだが、どこか寂しそうだった。
「嫌だった?」
「まさか」とすぐに言うことができて、ナオコはほっとした。
「嫌なわけないです。わたしたち、付き合っているんですから」
「そうだよね」
しらじらしい言葉だったかもしれない、と彼女は思った。
彼は力強くナオコの手を握りなおすと、再び歩き出した。会話はない。
「……もう帰る?」
つながれた手に力がこもった。
「明日も仕事だし」
前をむいたまま、独り言のようにつぶやく。
ナオコは延々と続く商店街の道が、返答までのタイムリミットのように思えた。
とにかく、彼をこれ以上傷つけたくなかった。その一心で彼女は口をひらいた。
「……帰らないでもいいですよ」
飯田は目を見開いてナオコを凝視した。そして眉尻をさげ、歩く速さをゆるめて「ナオコちゃん」と説き伏せるように話しかけた。
「男の嫉妬は醜い。それは、分かっているんだ」
ナオコはぎょっとした。「そんなこと」と言ってから、彼の嫉妬を認めることになったと気づく。
「言いたくはないけど……でも、あえて言うよ。君はあの人と話しているとき、とてもうれしそうだった」
彼は深呼吸をして冷静さを保とうとした。ナオコは口を挟めなかった。
「それは年月の差かもしれない。ぼくは君と会ってようやく半年経とうとしているくらいだし、彼はかなり長い付き合いだ。それでも、ちょっと嫌な気持ちになった」
「飯田さん」
「敬語も直らないね」
ずばり指摘されて、いよいよ言い訳ができなかった。山田に遭遇してから、すっかり敬語の件は頭から抜け落ちていたのだ。
「いいんだ、それは。おいおい直していけばいいから……ぼくが悔しいのは、どうしようもないことにたいして、ぼくが醜くなよなよしてしまっていることなわけだ。ほんとうに申し訳ない」
「……ごめんなさい、わたしも思慮がたりなくて」
「謝らないで、情けなくなるから」
とげとげしい言葉だった。ナオコは口を閉ざした。飯田の顔に後悔がうかぶ。
「……ごめん、今日はやっぱり帰ろう。お互いのために良くない」
「そう、ですね」
手が離れた。
乗る路線が違ったため、飯田とは駅で別れた。彼は最後まで申し訳なさそうにしていた。彼と会うときはいつも謝ってばかりだ、とナオコは悲しく思った。今回、その責任は全面的に自分にある。
飯田の言っていることは、正しかった。山田に会えて本当にうれしかったのだ。
それを見破られた気まずさと申し訳なさを、どう彼に弁解すべきなのか分からなかった。
家に着いたあと、なかなか眠りにつけなかった。こんな時でも思いだすのは、細くとがった指先である。一歩手前で止まった指は、以前ならば目元に触れてくれていたような気がした。
ナオコは布団のなかで飯田へのメッセージを打った。
『今日は気分を悪くさせてしまってごめんなさい。敬語も直せるように頑張りますから、どうかこれからもよろしくお願いします』
勢いに任せて打った文章を見直して、送信ボタンを押すかどうかためらう。ためいきをついて、削除ボタンを連打した。
そのとき、ちろりんと音が鳴ってメッセージが届いたので、携帯を取り落としかけた。飯田からだった。
『今日はつまらない思いをさせてしまってごめんね。でも初めてデートらしいデートができて楽しかった。もし今日のことで嫌になっていなければ、十九日に会いたいな』
簡素だが気持ちの伝わる文章だった。それに十九日は自分の誕生日だ。おぼえてくれていたのか、と心があたたまる。
ナオコはすぐに『わたしも会いたいです』と送ろうとした。そしてハッとして、最後の二文字を削ってから送信した。