ありふれた卑怯
寝不足だ、とナオコは思った。頭のなかがとろーんと重い。マルコからもらったファイルを読み解くのに夢中になってしまい、4時間しか眠っていないのだ。それほど必死に読んだのに、結果として恋人がうんぬんという言葉の真相は分からないままだった。
ナオコはやれやれと思いながら、ひとまずは今日の予定をこなすことに専念するつもりだった。
良いお天気がよけいに眠気を増加させる。目をこすりながら渋谷駅に行き、半蔵門線にのった。日曜日だからか家族連れや観光客でいっぱいだ。
押上駅で降りてスカイツリーを見あげると、少しだけ眠気がとれた。ここからでは全体像は見えないが、空にぐーんと伸びる塔はなかなかに見事だった。
「ナオコちゃん」と声をかけてきた飯田に「おはようございます」とあいさつをする。彼はナオコのねぼけまなこにクスリと笑った。
「寝不足みたいだね?」
「ごめんなさい」と肩をすぼめる。「ちょっと眠れなくて……」
「忙しいのに無理に誘ってごめんね。のんびり行こうか」
「はい、飯田さん」
彼はにやりとして「敬語」と指摘した。
「あと、今日は達也ってよんで」
ナオコはハッとして、こくこくとうなずいた。
「わかりま……わかった。たつやくん?」
「そんな感じで」と、飯田は笑った。
今日のデートを提案したのも彼だった。ナオコはつながれた手のぬくもりにホッとしたが、心のそこで渦巻いている罪悪感も無視できなかった。昨日のマルコの質問にうまく答えられなかったことが、しこりとなっているのだ。
彼女はそっと飯田の表情をうかがった。今日は眼鏡をかけていない。おだやかな顔つきをみると安心する。これが好きという気持ちだ、と自分に言い聞かせる。
気持ちをかためて、手に力をこめた。飯田がびっくりして「どうしたの?」とたずねてきたので「なんでもないよ」と笑いかける。彼はうれしそうに握りかえしてくれた。
ソラマチに入ってお互いの服を選んだり、アイスクリームを食べたりした。新鮮な気持ちだった。たいていの場合、人がごった返している場所に来るときは仕事だ。〈虚像〉は人口が多いところで発生するので、自然とそうなってしまうのである。
昼食をとったあと、せっかくここまで来たのだから展望台に登ろうと飯田が提案した。「登ったことないんだ」と、わくわくした顔でチケットを買う列にむかう。混雑のため、代表者だけ並ぶようにとの看板が立っていた。
「じゃあ、ちょっとだけ待っていてね」と、彼は告げた。
「了解です」
ナオコは彼の生真面目さを好ましく思った。列には二人連れならさほど迷惑にもならないでしょうと言いたげなカップルがたくさん並んでいたが、飯田はルールを順守するタイプなのだろう。
彼の戻りを待ちながら、さりげなく自分のすがたを確認した。今日は薄手のニットワンピースを着ている。髪もおろしているし、ある程度化粧も頑張った。
これなら山田さんにもなにも言われないだろう……とごく自然に考え、顔をしかめる。気を抜くとすぐに彼のことを考えてしまう。
彼女は雑念を払おうと、歩いている人々を観察して待つことにした。
平和そのものだ。家族連れや熟年夫婦、カップルが多い。中高生の友達グループがわいのわいのと目の前を通りすぎた。ナオコはおだやかなホールの様子にあくびをしてから、こういう日常だけが延々と続けばいいのにと考えた。
物思いにふけってからしばらく経った。飯田はまだ帰ってこない。
ナオコはためいきをついて壁に寄りかかった。歩く人々はみんな異なっているが、一様に楽しそうな笑顔をうかべている。
視界の端を烏のように真っ黒な影が横切った。思わず目で追ってから、ナオコは自分のすがたを隠そうと壁にとかげのように張りついた。しかし開けた場所でそんなことをしてもなんの意味もない。むしろ不審な動きが人目をひいたのか、彼がこちらを向いてしまった。
「……なにをしているんだ」
いぶかしげに話しかけてきたのは山田だった。
ナオコはとかげの真似を止めて、ごほんとせきをした。疫病神の存在を疑うくらいタイミングの悪い遭遇だ。いくら東京が狭いとはいえ、彼と出会わなくもいいはずである。
「そちらこそ、なにしているんですか」
「仕事だが」
「リリーは?」と質問すると、彼は首を横にふった。
「今日は俺一人だ」
「……あっちの方ってことですか?」
公式の仕事ではなく、本社からの任務なのかと暗にたずねる。
「久しぶりにな。最近は異常種がほとんど出現していない」
「そうですか……」
それを聞いてホッとする。精神分離機を頻繁に使わなければ、副作用もマシになるだろうと思った。
山田は彼女をつま先から頭のてっぺんまで、なめるように見た。
「デートか」
「わたしがデートしちゃ悪いですか」
つっけんどんに言って、ちらりと彼の表情をうかがう。バディを解消してから、こうして直接会話するのは初めてだった。 見たところ彼は平常通りだった。どこか嬉しそうですらある。
「頑張ったじゃないか」
「へ?」
「ましになっている」
自分の服装について話しているのだと気づき、ナオコは気恥ずかしくなった。「どうも」とだけ言ってから、なにかを付け足したくなる。
「……山田さんのおかげじゃないですか?」
ぶっきらぼうに言ったせりふに、彼は目を丸くした。意外そうな顔をされたことに、より面映ゆくなる。
「その、いろいろご指導いただいたから」と、ナオコはもごもご口を動かした。
すると彼はのどの奥で笑いながら「節介の甲斐も少しはあっただろう?」と口角をあげた。
ナオコはやるせなくなった。あのとき彼に放った言葉を撤回したかった。本当はお節介だなんて思っていません……。しかしそれは透明な水底に深くしずんだ荷物のように、見えてはいても引きあげるのが難しい言葉だった。
だから「最近、体調はどうですか?」と、会話をつづけるためにたずねた。
「問題ない」彼はあっけらかんと答えた。
「君のほうが具合が悪そうだな」
山田は無造作に指を伸ばした。ナオコは肩をこわばらせた。目元すんでのところで止まる。
「クマがひどいな」と眉間にしわを寄せる。
「きちんと眠っているのか?」
「ね、眠ってますとも」ナオコはそわそわしながら答えた。
「デート前日だって、きちんと寝れる女なんです! わたしは」
「それもどうかと思うが」彼は口元をゆるめ「まあ、今日の様子なら彼氏に見放されることもないだろう」と軽口をたたいた。
「山田さんは、見放す側ですもんね」
「……そうでもない」と、彼は苦笑した。
ナオコは自分の失言に気付いた。自分と彼の関係にかぎり、見放したのは自分だ。少なくとも彼はそう思っている。
「山田さん、その」
ナオコはどうしても謝りたかった。だがなにを口にすればいいのだろう。のどでつっかえた言葉は、ただ浅ましい罪滅ぼしにすぎなかった。
彼は不思議とおだやかだった。「邪魔したな」と声をかけ、その場を立ち去ろうとした。
そのとき「ナオコちゃん?」と、鋭い声が背後からかかった。