All green
夜が帳を降ろしている。マルコは執務室からみえる暗闇を視界のはしにとらえた。小高い丘のうえから見える都会の光は、山が白く燃えている風景を思わせた。彼は見たことがなかったが、京都の嵐山が燃える様子を想像した。あんなふうに美しければいいけれどと思うのも感傷だ。
携帯電話を右耳から左耳へうつした。
「……ジェンキンス、聞いているのか?」
不安と警戒の混じった声が鼓膜をたたく。マルコは「ええ、もちろん」と明るくかえした。
「心配しなくても、すべて盤石です。5課3班をふくめ、特殊警備部はうまく任務にあたっています。彼らは現在に満足している。日本支社に問題はありません」
「それなら構わないが」
声がいったん止まった。
「警戒してくれ。先代が消えたことで本社のスナークたちは動揺している。シホくんは分からんが……タッカーくんは彼らの権利に敏感だろう」
「参政権は平等に与えられるものですけれど」
マルコが冗談をとばすと、かわいた笑い声がかえってきた。
「どの国の参政権なのかが問題だ。政治家としての君の意見を聞きたいものだな」
「……もちろんぼくはあなたたちと志を同じくしています」
彼は窓に背中をあてて、ひそやかに答えた。
「山田さん、あなたがHRAの未来を憂うように、ぼくだってこの組織を家族同然に思っています。人は生まれ育った国を愛するものです」
マルコは彼、山田秀介が苦手だった。よく親しんだ男だ。HRAの研究員としてアルフレッドの横にひかえていたのは、いつもこの男だった。彼は冷静で優秀で、良くも悪くも人間らしかった。
アルフレッドはHRAを毒をもって毒を制するように支配した。彼のゆがみが、組織全体のゆがみを反作用的に平坦にしていたのだ。
しかし山田秀介はどうだろう。
「生まれ育った国」山田秀介は吐き捨てるように言った。
「もし血を分けた兄弟が、むこうの国へ味方をするのであれば……それも分からんな。家族同然であれば、だが」
マルコは誰に見せるでもなくほほえんだ。
「今も昔も、ぼくにとっての家族はアルフレッドだけです」
「……ならいいが」
それから二言三言話し、電話は切れた。
ちいさくためいきをつき、帰り支度をはじめる。鞄を机のうえに置き、散らばった資料や本を詰めた。
彼はふと思い立ったようにその中の一冊を手に取ると、顔の前に掲げた。本をつかんだ指先がぶれた。衝撃が伝わったのだ。表紙に突き刺さっているのは、青いペーパーナイフだった。
「……いやあ、危ないなあ」
彼はのんびりと言った。
「人に刃物をむけちゃダメって、山田くんは教えてくれなかったの?」
扉の影から音もなく現れたのはリリーだった。彼女は口を真一文字にむすんで、マルコとナイフを見比べた。
「シホがわたくしに教えたことは、疑うべき人間とそうではない人間の見比べ方です」
マルコはほほえんだ。
「へえ、そのわりにはナオコくんにも牙を向けたみたいじゃないか。彼女はなんにも知らないのに」
彼女はよもすれば刃物よりも鋭い視線をマルコに向けた。
「ええ、そうですね。アレは間違いでした。彼女は愚かです。あんなにも近くにいるのに、わたくしたちのことを何も知らない……でもアナタからすれば、都合のよいことでしょう? もともとシホとバディを解消させたかったのは、アナタなんですから」
彼女は目をぐるりと回して、話をつづけた。
「中村ナオコがシホをたぶらかしている、と教えたのはアナタです。マルコ・ジェンキンス……アナタこそ彼女を殺したいのだと思っていましたが」
「まさかあ」
彼はにこやかに両手を広げた。
「ぼくは彼女が大好きなんだ。殺すわけがない」
「ですが、わたくしを使ったでしょう。こうなることが分かっていて、伝えたのだと思っていましたが」
リリーは素早くマルコに肉薄した。本を奪い取ってナイフを抜く。すばやく彼の胸元にむけた。がちゃん、と撃鉄を起こす音がした。
「……日本では銃規制が敷かれていると聞いていましたが」
「うん。だから使わせないでね。こんな住宅街で使うと、記憶処理が面倒くさいんだ」
マルコは拳銃を両手でかまえたまま、ほほえんで見せた。リリーのこめかみから、すうっと汗がおちた。
「やっぱり、そうなんですね」
「なにが?」
「……精神分離機を発明するだけの知能、いま見せていただいた反射神経の高さ、どれも申し分ないです」
マルコは彼女の発言の意図を察して目を丸くした。
「へえ、そう思うんだ?」
「山田秀介の言う家族も、そういう意味ですよね」
「……盗み聞きはよくないなあ」マルコは苦笑した。
リリーは彼の顔面を穴のあくほど見つめた。
「そうすればシホがあんなことをした理由も説明がつきます」彼女の目元を、複雑な影がよぎる。「シホは、アナタのために……」
マルコが机の向こう側からひらりと飛びあがった。片腕をつきだして、リリーの口元をつかむ。くぐもった悲鳴がする。
二人して床に倒れこむ。彼女は恐怖をうかべて、目の前の青年をみあげた。紳士然とした顔つきのなかで、異様に目が輝いていた。彼はにんまりと笑って、彼女の耳元にささやいた。
「聞いていただろう? ぼくは君たちの意図なんてとっくに知っているんだよ。そして、これ以上波風をたてるつもりもない……ナオコくんと引き離させたのは、ひとえにそれが彼らのためだからだ」
彼女の目を影が走っていった。様々な感情が入り交じって、当人にさえも正体のつかめない色だった。
マルコは反対側の手で、その瞳に指をのばした。うるんだ茶色い瞳が恐怖にまるく開かれる。指の皮がそっと眼球に触れた。
指は涙をいっぱいにためた瞳をひとなでして、離れた。彼は指についた水滴をながめて笑った。
「裸眼なんだね」
リリーの口元から手が外された。すると「偽善者ですね」と憎々し気な声が放たれた。
「聞こえのいいことを言っておいて、シホをうまく利用するつもりですか?」
「君も聞き分けが悪いね。そんなこと言ってないよ。経営者としての判断だ」
彼は真剣なまなざしになった。
「いいかい、ぼくはこの会社の人たちのためならなんでもやるって決めたんだ。だからリリーくんがこの会社に利益をもたらしてくれるっていうなら、それで構わない。でもこのあいだみたいに、ナオコくんに害を及ぼそうって言うなら」
呼吸音がひびく。彼は目を細めた。
「この会社に君の居場所はないよ……せいぜい山田くんにバレないようにしないとね?」
リリーはなにも答えなかった。ただ握りしめられたこぶしが震えていた。
「仲良くしようよ、リリーくん。ぼくたちは同じ目標をもっているんだから。ぼくはあの子が欲しい。君は、大好きなお兄ちゃんが欲しいだろう? ほーら大団円だ。頑張ろうじゃない」
彼女は小さく英語でなにかをつぶやいた。華憐な唇から出てきたとは思えないほど口汚い言葉だった。マルコはそれを聞いて、よりいっそう笑みを深めた。
「近親相姦野郎はどっちかな?」
「死ね」
リリーが中指をつきたてた。