愛の子
マルコは意表を突かれたのか「どうしたの急に」とナオコにたずねた。
「わたし、ずっとマルコさんを疑っていました……なにか隠しているんじゃないかって。それで、このあいだも執務室から逃げちゃって」
彼女は目を伏せた。
「本当にごめんなさい」
彼はしばらく沈黙をまもった。そして「あながち間違ってもいない」と切りだした。
「ぼくは君たちに隠しごとをしている。でもそれは、みんなそう。ナオコくんもぼくに隠しごとをしているでしょ」
その柔らかいほほえみに、彼女はほっとした。彼の言葉が「誰にでも秘密はある」という常識的なことを指していると分かったのだ。
「どうでしょう」と彼女は苦笑した。
「わたし、たいていのことはマルコさんに話しちゃっていますよ」
彼は「ふうん」とうなり、片方の眉をつりあげた。
「そっか。ならいいんだけど……ね、ナオコくん、彼氏さんとはうまくいっている?」
突拍子のない話題の変更に戸惑いながら、ナオコはうなずいた。
「そっかあ」
彼はことさらに残念そうな表情をうかべた。
「もし、うまくいっていなかったら、ぼくの秘密を教えてあげようと思っていたのに」
「秘密ですか?」
「うん、秘密。知りたい? だれにも言ったことがない」
ほおに手をあてて、首をかしげる。楽しいことを待ち望む子供のようにするので、ナオコは「知りたいです」とにっこりした。
「へえ。でもタダでは教えてあげられないよ」
「でしょうね」
「先にぼくの質問に答えてもらわないと……それでもいい?」
ナオコは軽い気持ちでうなずいた。彼とこうやってジョークを交わすのは楽しかった。だから、なんの警戒もしていなかった。
「じゃあ聞くね。ナオコくん。君はだれのことが好きなの?」
かちん、と空気が停止して氷のつぶになったような気がした。
心臓のあたりが空洞になっていく。そのなかを小さなアリが歩いているような違和感。
マルコはすべてを見透かしている。彼女はそう思った。彼氏である飯田のことが好きだ。そう言わなければならない。なのにその答えは、喉の奥で凍りついていた。
マルコは彼女の葛藤をあるがままに理解したようだった。憐れむような目をして、そしてどこか勝ち誇ったような表情をうかべた。
「……答えてくれないの?」
ナオコは深呼吸をして「彼氏です。このあいだ、付き合いはじめたって言いましたよね」とやっとのことで口にした。
この言葉をマルコが信じてくれるなんて少しも思っていない。ただの建前だった。それでも、立てなければいけない建前だった。
「そっか、彼氏ね」
彼はナオコの言葉なんてどうでもいいかのようにつぶやいた。
「それは結構なことだ」
ナオコはいますぐ資料室から逃げ出したかった。マルコに山田への気持ちを見透かされているような気になったのだ。もちろん、なにも言っていないのだから、彼がそのことを知るよしはない。ただ自分勝手に焦っているだけだ。
扉にむかってにじり寄る。別れの言葉を告げるまえに、マルコが口をひらいた。
「ぼくの秘密はね……ぼくが、とても諦めの悪い男だってこと」
しん、と部屋が静まりかえった。紙が音を吸収しているようだ。彼の手のなかにあるファイルだけが、かさかさと音をたてている。
「し、知ってます」
ナオコは額面通りに言葉をうけとった。
「マルコさんは努力家ですもんね」
「いいや、知らないよ」と、彼はゆるやかに否定した。
「ぼくだって知らなかった。諦めのいい方だと思っていたよ。人には、どうあがいても手に入らないものがある。それならすぐにすっぱり忘れるのが正しいやり方だ」
その言葉には実感がこもっていた。
「……道が二手に分かれていたとする」
ふいに彼は優しい声色で話しかけた。
「右は平坦な道、左は茨の道。どちらかに進まなくてはならないけど、着く先は同じだ。ナオコくんなら、どちらに進む?」
「なぞかけ、ですか?」
「うん。君ならどうする?」
ナオコは手のひらのうえで転がされているような感覚になった。
「その道の行く先が同じなら、平坦な道を行きますけれど……」
当たり前の答えを言うと、マルコは「普通はね」と笑った。
「だけど、ことこの道に関しては、なぜかみんな茨の道を進むんだ。行く先が同じだって知っていても、なぜか」
マルコがふっと近づいてきた。
「ぼくは諦めの悪い男なんだよ、ナオコくん。行きつく先が一緒でも、茨の道のほうがずっといい」
優しい声だと思っていたものは、嘲笑する声のようでもあった。ナオコはマルコから目が離せなかった。彼の腕がそっと肩をつかんだ。
「ひとつ検証をしよう」
彼はほほえんだ。それは、悪意のある笑顔だった。あご先に指がすべりこんできた。あっという間もなかった。
ほおに柔らかな感覚があった。すぐそばでくすくす笑いが聞こえた。
「検証おわり」
マルコは彼女の腕のなかにファイルを押しつけると「それじゃ、結果まってるから」と片手をあげ、彼女の横を通りすぎて部屋を出て行った。
ナオコはしばらくその場に立ちつくしていた。そして彼がいなくなって一分ほど経って、ようやく現実感が戻ってきた。
「え?」
ほおに手をあてる。アメリカンジョークだ、と冷静に思った。反対にまた性懲りもなくからかわれて、恥ずかしくなった。
ナオコはゆらゆらと部屋をでた。収穫はあった。失ったものも多かったうえに、さらなる懸念事項が生まれたが。