間の子
次の日、ナオコは16時すぎに仕事を終えた。ケビンとはあいかわらず気まずいが、明日は休みだ。少しだけ気も晴れる。
本社にもどると保全部にむかった。いつもならオフィスで映像を観るのだが、今日は違うアプローチを試みるつもりだった。
保全部は二十四時間体制なので、つねに人がいる。受付に行って「資料室の鍵を貸していただけませんか?」とたずねた。
「かまいませんが、どういったご用件ですか?」笑顔がチャーミングな受付女性は、小首をかしげてたずねた。
「ああ、ええっと、HRAの歴史について知らないなーと、このあいだふと思って」
ナオコは視線を泳がせながら、そう説明した。嘘はついていない。
「お忙しいのに殊勝な心掛けですね! すばらしいです」との言葉のあと「どうぞ」と、鍵を手渡されたのでナオコは礼を言って保全部を後にした。
そのあと彼女は十一階に降りた。がらんとしたフロアだ。この階には研究室が3部屋と人事部の部屋があるが、どの部屋にもめったに人がいなかった。人事部の人間は常に新たな人材発掘のために世界中を飛びまわっているし、研究室にいたってはほぼマルコしか使っていない。
聞いた話によると、日本支社立ちあげのときに数名が研究チームとして送られてきたのだが、マルコの研究内容についていけず本社にとんぼ返りになったらしい。
廊下にそらぞらしく並ぶ扉のあいだを通りすぎて、一番奥の部屋の鍵をあけた。
資料室だ。ここも保全部の管轄だが、ほぼ立ち入らない。〈鏡面〉や常駐警備部が閉じた〈焦点〉のデータなどの大半はパソコンで管理している。ここに彼らが入るのは、きわめて大切な紙面を保管するときだけだ。
かくいうナオコも入社して4年目にして初めて入室した。
資料室には灰色の本棚がぎっしりと敷き詰めてあった。地震が起こったらすぐさまぺしゃんこになってしまうだろうなと思いながら、彼女は一番近くにあった資料棚をのぞいてみた。
『二〇一八年九月〈鏡面〉』『二〇一八年上半期鏡面エネルギー推移』『二〇一八年上半期虚像形態一覧』……そんなラベルが延々とつづいている。
ナオコはくらくらしてきた。ただでさえ彼女は活字が苦手だった。
自分にも読めそうな資料はないだろうかと、うろうろする。一冊くらいはHRAに関しての本があるだろう。歴史をたどれば、ひょっとするとブージャムについてのヒントが書いてあるかもしれない。
迷路のような部屋の果てにきた。一つだけ机が置いてある。ファイリングされている途中の資料がほったらかしになっていた。保全部の誰かが整頓している途中で忘れてしまったのかもしれない。
ナオコはなんとなしにファイルを手にとってみた。まだラベリングさえされておらず、20枚くらいの資料が挟まっていた。一枚目をめくる。
「ん?」ナオコは首をかしげた。
そこには新聞のスクラップがはさまっていた。英字だ。どうやらニューヨークタイムズのようだ。てっきり文字や図版が並んだプリントが出てくると思っていたナオコは怪訝に思いながらも、資料に目を通した。
これでも彼女は大学で英語を専攻していた。日本語はみんなができて当然だったので苦手意識があるが、英語はみんな不得意だったため、まだやりがいがあったのだ。
学士の威信をかけて、なんとか検討をつけて読んでみる。
二月二十六日、ウィンストン・チャーチルが核兵器保有を公表。次をめくる。第42回アメリカ合衆国大統領選挙の生末。共和党ドワイト・D・アイゼン・ハワーに軍配あがる……。なぜか1953年のスクラップもはさまっていた。1953年3月5日スターリン死去。党中央委員会第一書記フルシチョフと為り……。
ナオコは首をひねった。統一感がない。次をめくると、今度は日本語がでてきた。1962年に発行された朝日新聞の記事である。
『「キューバ封鎖」はじまる』の見出しの下に『米艦、ソ連船へ接近』とある。
ぴんときた。これはキューバ危機の記事だ。とすると、この記事は核戦争をテーマに集められたものなのだろうか。
不思議に思いながら読んでいると、端に走り書きを発見した。非常に読みづらいが、目をこらしてなんとか読み取る。
We lament the lovers death.
うぃーらめんとざらゔぁーずです。
悼む、恋人、死。
「われわれは恋人の死を悼む?」
なんのことだろう。ナオコは走り書きをまじまじと見つめた。キューバ危機には不釣りあいな言葉だ、と思った。
この歴史的事件によって人間は死んでいないはずだ。むしろ。
「人類の進化だよね」
「うわあああっ」
ナオコは背中をおばけになめられたように飛びあがった。マルコは腕をくんで目をまんまるくしている。
「そんなに驚かなくても」
「ま、ま、マルコさん。いや、はやく声かけてくださいよ……」
早鐘をうつ心臓を抑えて、はあっと息をつく。山田といいマルコといい、どうしてみんな背後から近づいてくるのだろう。
彼は新聞記事をのぞきこんで「このファイル、ぼくが作ったんだよね」と苦笑した。
ナオコは慌てて「勝手に見てすみません!」とファイルを閉じようとしたが、マルコが「いやいや、いいんだ」と手を挟んで止めた。
「普段はここ、だれもいないんだけど……ナオコくんが居るとは意外だったよ」
「あ、その、わたしも調べたいことがあって」
おかしな緊張が走った。お互いになにを探っているのだろうと伺いあう。マルコがふと口を開いた。
「……キューバ危機によって人類は救われた。核戦争を回避できたのは、ひとえに戦争の記憶を覚えていた世代が進化したから。そう思わない?」
ナオコはうなずいた。「核戦争で全部がなくなっていた可能性もありますもんね」
「We lament the lovers death」
彼は歌うように言った。
「この恋人ってだれのことだろうね」
「変わったコメントですよね。キューバ危機では、むしろだれかが救われた可能性のほうが高いのに」
ナオコの疑問に、マルコはうなずいた。
「そのとおりだ。たくさんの人が救われた。だからこそ、その影で失われたものについて、これは述べているのかもしれない」
「しれない?」
「あくまでも、しれない」マルコはおかしそうに笑った。「分からないけどね。この記事はアメリカで発掘したんだけど……そう思った人がいたんだろう。恋人が死んでしまったって思った人が」
マルコはふと思いついたように「そのファイル、ナオコくんにあげる」と言った。
「え、いいんですか?」
「うん、調べものの結果がそれだから。ナオコくんの知りたいことと、ぼくの知っていることが合致するかは分からないけど」
含みのある言い方だった。ナオコはマルコの瞳に、あの鏡のような輝きを見た。
「山田くんのことが知りたいんだろ?」
息をのむ。マルコはにやっとした。そのほほえみはいたずらっ子のようにも、見えない悪意そのものにも見えた。
「ナオコくんは、なにが知りたいの? ぼくはなんでも答えるよ」
ナオコはファイルをぎゅっと抱きしめた。正直なところ、怖かった。彼の足元に得体のしれない影が落ちているように思えた。その正体は分からないが簡単に触れていいものではない。
それでもこうしているのは嫌だった。ナオコは覚悟を決めた。いまの自分にはなにも残されていない。それなら、どうなろうが構いやしない。
「ブージャムってなんだか知っていますか?」
彼はナオコが質問をしたことに驚いたようだった。しかしすぐに「知っているよ」と答えた。
「先日もそれについてたずねようとしたね? すぐに部屋を出てしまったから、教えてあげられなかったけど」
ナオコは赤面した。
「すみません、あのときは……ちょっと情緒不安定で」
「いや、いいんだよ」と、彼は手をふった。そのすがたは鷹揚なかんじがして、ナオコはなんとなく拍子抜けした。
彼はどこから話そうか迷ったのち「まえに山田くんが本社で怖がられているってこと、話したっけ?」と切り出した。
「怖い人だと思っていた、と聞きました」
「そうそう、とても怖かったよ。ブージャムはスナークの一員で、人であって、人でなし。静かにとつぜん消えて二度とあらわれなくなるのは彼らが〈鏡の国〉に最も近しい場所にいるからだ」
ナオコは彼の一挙一動を見逃さないように気をつけた。なにかを隠しているのでは、との疑いがまだくすぶっていたのだ。しかし彼は自分の知っている彼のままだった。親切な経営者で、優しくとびきり賢そうな若者だ。
「ブージャムはね、虚像と人間の子供のことなんだよ」
空気がふるえて、止まった。資料室の乾燥した空気が、のどを貼りつかせた。
「検体番号01」とナオコがつぶやいた。
彼は目をみひらいたが、すぐに「リリーくんから聞いたんだね」と優しくたずねた。
「はい。彼女は……自分は検体番号14で、山田さんが検体番号07だって」
ナオコはそこで点と点が線になる感覚を得た。
リリーは検体番号01が自分の母親だと言っていた。そしてナオコの知っている〈虚像〉のなかで女性の形をとるものは、ひとつしかない。
この現実世界まで辿りついた最初で最後の〈虚像〉。HRAが立ち上げられた原点となった女性。
「アリス」
ナオコは静かに問いかけた。
「検体番号01は、アリスのことですね」