解けたときに気づく呪い
次の日、ナオコはかつてないほどに沈んだ気持ちで出勤した。右腕には包帯が巻かれているが、スーツのおかげで見えない。
オフィスはいつもの通りの風景だった。何人かの〈芋虫〉が席について各々の仕事をこなしたり、出動命令がかかるまで雑談している。「中村、おはよう」との声に元気なく返す。
「おはようございます、ナオコさん?」
背中がぞわりとして、ふりかえる。リリーは昨日の般若のような様相は欠片もみせず、優雅にほほえんでいた。しかしナオコには分かった。目が笑っていない。
「お、お、おはよう、リリー」
「うふふ、今日はいい天気ですね」
空はどんより曇っていたが、ナオコに否定できるはずはない。リリーにとっては、今日この瞬間に雹が降ろうが槍が降ろうが良いお天気に決まっているのだ。
「……わかっていますよね?」耳打ちされる。「仕事が終わったあとに言いなさい」
ナオコはだまって首を縦にふった。リリーはうれしそうに横を通りすぎて席についた。ケビンは不機嫌そうにリリーを一瞥し、視線を元に戻した。彼らの仲もうまくいっていないようだ。
正直なところ、ナオコはこのことを山田に伝えるべきか迷っていた。あなたの妹に昨日殺されかけたんですけれど、ちょっと注意してもらってもかまいませんか? そんな風にシミュレートをしてみて、かわいた笑いをうかべる。ふざけていると思われるのがオチだ。
自分がとるべき行動は、ひとつしかなかった。
その日の仕事は東京郊外のショッピングモールで行われた。〈虚像〉鳥類型を一名倒して終わりだ。あっけなかった。
ナオコは機をうかがいながら、山田の後を歩いていた。モールは駅まで距離があり、住宅街を通っていかなければならなかった。午後15時すぎの街は閑静で、あたたかな陽気が道を照らしていた。
「……山田さん」ナオコは意を決して話しかけた。
「なんだ」
まず謝らなければならない、と彼女は思っていた。彼に酷い言葉を投げつけた謝罪をしていなかったからだ。
なので「このあいだ電話でひどいことを言いました。本当にすみませんでした」と、山田の横にきて謝った。彼は困り顔をした。
「べつに謝らなくてもかまわない。俺に過失のあることだろう」
「違います! あれはその、八つ当たりです」
ナオコは思わず山田のスーツの袖をつかんだ。そして火がついたように、手をすぐに離した。愕然とした。自分がなにげなくした仕草が、いつもリリーがしているものだと気づいたのだ。昨日切られた右腕が痛むのは、リリーの怒りが傷のうえで燃えているからだと思った。
「……どうした」
山田はナオコのゆらぐ瞳をみて、心配そうな色をみせた。
「なにかあったのか」
なにもないとは言えなかった。ナオコは呆然としてしまった。リリーの昨晩の行いの理由が、墨汁をたらしたように胸に落ちて、じわじわと広がっていた。
彼の妹のような気分になって浮かれ、リリーの居場所を奪っていた。そうナオコはまざまざと感じた。そしていま、自分と山田のあいだにある関係はなんだろう。なんの意味もない人間。ただの取引相手。ただの相棒。ただの……なんだろうか。
ナオコはふっと顔をあげた。「山田さん、ちょっとこっち」と、袖をひっぱる。リリーの真似だ。ひんやりした自虐が、心の奥でささやいている。これは最後の抵抗だ。
「なんだ」
彼はおとなしくナオコに引っぱられた。この顔もリリーと居るときによく見るな、と彼女は思った。若干嫌そうに、でも素直に従う兄の表情をしている。
住宅街をぬけると、駅前についた。人通りが多いが、街なみが雑多になったぶん暗い通りも増えている。ナオコは人目を避けるように、パチンコ屋の裏手にある階段にむかった。そして不審そうにする彼のまえでジャケットを脱いだ。彼は驚いた様子だったが、すぐに右腕の下にあるふくらみに目を奪われたようだった。シャツをめくり、包帯を見せる。
「……どこで怪我を」と、山田が固い声でたずねた。
「昨日うちに帰るさい、ごみ置き場のまえで派手にころんで。そしたらガラスの破片ですっぱりやっちゃいました」
ナオコは淡々とうそをついた。夢見心地だった。悲しさがお腹の底で浮遊して、勝手に口を動かしていた。もはや彼女にとっては、山田がそれを信じようが信じまいがどうでもよかった。包帯を取ると生傷があらわになる。
「ごめんなさい、あまりきれいじゃないですけれど」
まだぬらぬらと光っている傷だ。血が止まっているが、刺激すればすぐに液体となってあふれ出しそうな肉の断面。これだけが彼女にとっての最後の手段だった。
山田は困惑していた。「俺はそんなに顔色が悪いか」とたずねてくるので「ええ、とても」とうなずく。それは本当のことだった。彼はあれから吸血をしていないのか、非常に具合が悪そうにみえた。
「どうか吸ってください」
ナオコは小首をかしげた。リリーを意識していた。醜い行いだ、とわかっている。だがこうしてみたいと思ってしまった。自分が奪う側であると知ってしまったからには、もうこの行いも最後だ。
山田に彼女の異変は伝わっているようだった。彼は周囲に目をくばってから、そっと腕を手にとった。歯が皮膚をかじり、傷口にじわりと痛みがしみわたった。
ナオコは昨日のリリーを思いだしていた。恐怖が共感に変わっていく。あの少女の気持ちが理解できる気がした。本来自分のものであるべき立場を奪われた悔しさ。居場所のない苦しみ。そういうものを誰よりも分かっているつもりだった。
「……なにがあったのか話せ」
吸血を終えた山田は、静かにそうたずねた。ナオコは笑ってしまった。やっぱり彼は優しい。特殊警備部のみんなに、この顔を見せてあげたいくらいだ。
「もう付き合いきれないんです」
彼女は明るい声で告げた。山田は無表情になった。
「いま吸血をさせたのは、手切れ金です。これからはリリーから血をもらってください」
腕ではない場所が痛い。それでも言葉をつづける。
「さっき謝った気持ちは本当です。でも電話で話したことも本当です。山田さんはリリーが大切でしょう? ならわたしと組むよりも、彼女とバディを組んだほうが良いと思いませんか」
視線をそらしてはならなかった。深呼吸をして続ける。
「付き合いきれないって言ったのは、信頼関係についてです。山田さんはいつまでたってもわたしを信頼してくれませんよね。このあいだのこともそう。そういうの、正直疲れちゃいました。たぶん山田さんとわたしは相性が悪いんです。そういうバディもありなんじゃないかって思っていましたけれど……でも、もっと信頼のおける相棒のほうが良いでしょう? それが特殊警備部全体のためにもなります」
一息で言いきった。壊れたポンプみたいに心臓が鳴っているが、血は足元へ落ちていく気がした。
彼は「そうか」と、ただうなずいた。
「君の言うとおりだ。俺たちには……信頼なんてものはなかったな。最初から、最後まで」
「そうですよ」
ナオコは無理やり笑った。うそですよ、そんなことおもっているわけないじゃないですか。しんじないでくださいよおねがいだから。心のなかで叫んでも、伝わるはずがない。
「わたしからマルコさんにお話ししておきますから、リリーと組んでください。あいにくケビンと彼女も、あまりうまくいっていないようですから」
「もっともな話だ。だが彼には俺から話をしておこう。マルコ殿はバディを変えるのを好ましく思っていないだろうから、君から話をすると丸めこまれる可能性がある」
「丸めこまれるって」
「そうだろう? 君はとことん議論に弱い」
皮肉っぽい笑みに、ナオコは思わず笑いかえした。そして苦しさが喉の奥をのたうちまわった。
「世話になったな」
山田はぽんとナオコの背中をたたいた。これまでにないほど気安い仕草だった。
こちらこそ、なんて言えるはずもなかった。山田は足早にその場を立ち去った。追いかけられなかった。
口にできなかった言葉だけが残った。
ああ、ダメになったんだ。ナオコはぼんやりと思った。彼の信頼を無に帰した。いや、違った。あると思っていたものが、すべて幻だったとあきらかにしてしまった。
ナオコは目頭があっというまに熱くなるのを感じた。止めることもできず、ぽろっと涙がこぼれた。階段のすみにへたりこむ。ジャケットをひざのうえに置き、うつむく。裏通りのため、人通りがないのが幸いだった。
目の前には空き地が広がっていた。きれいな夕日が世界の向こう側から落ちてきていた。
彼女は息をのんだ。
山田とこんな夕日のなかを歩いた。あのとき、彼を心から守りたいと思った。そうだ。それはまるで冗談のように鈍感な勘違いだった。今更気づいて、ナオコはひとりで笑った。あの日、あの瞬間に抱いた気持ちの名前を、いまなら正しく言うことができる。もう遅かった。遅すぎた。
それでも、彼女は唇だけを動かした。
あなたがすきです、と。