表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れる男の夢
79/173

解けたときに気づく呪い

 次の日、ナオコはかつてないほどに沈んだ気持ちで出勤した。右腕には包帯が巻かれているが、スーツのおかげで見えない。

 オフィスはいつもの通りの風景だった。何人かの〈芋虫〉が席について各々の仕事をこなしたり、出動命令がかかるまで雑談している。「中村、おはよう」との声に元気なく返す。


「おはようございます、ナオコさん?」


 背中がぞわりとして、ふりかえる。リリーは昨日の般若のような様相は欠片もみせず、優雅にほほえんでいた。しかしナオコには分かった。目が笑っていない。


「お、お、おはよう、リリー」


「うふふ、今日はいい天気ですね」


 空はどんより曇っていたが、ナオコに否定できるはずはない。リリーにとっては、今日この瞬間に(ひょう)が降ろうが槍が降ろうが良いお天気に決まっているのだ。


「……わかっていますよね?」耳打ちされる。「仕事が終わったあとに言いなさい」


 ナオコはだまって首を縦にふった。リリーはうれしそうに横を通りすぎて席についた。ケビンは不機嫌そうにリリーを一瞥し、視線を元に戻した。彼らの仲もうまくいっていないようだ。

 正直なところ、ナオコはこのことを山田に伝えるべきか迷っていた。あなたの妹に昨日殺されかけたんですけれど、ちょっと注意してもらってもかまいませんか? そんな風にシミュレートをしてみて、かわいた笑いをうかべる。ふざけていると思われるのがオチだ。

 自分がとるべき行動は、ひとつしかなかった。






 その日の仕事は東京郊外のショッピングモールで行われた。〈虚像〉鳥類型を一名倒して終わりだ。あっけなかった。

 ナオコは機をうかがいながら、山田の後を歩いていた。モールは駅まで距離があり、住宅街を通っていかなければならなかった。午後15時すぎの街は閑静で、あたたかな陽気が道を照らしていた。


「……山田さん」ナオコは意を決して話しかけた。


「なんだ」


 まず謝らなければならない、と彼女は思っていた。彼に酷い言葉を投げつけた謝罪をしていなかったからだ。

 なので「このあいだ電話でひどいことを言いました。本当にすみませんでした」と、山田の横にきて謝った。彼は困り顔をした。


「べつに謝らなくてもかまわない。俺に過失のあることだろう」


「違います! あれはその、八つ当たりです」


 ナオコは思わず山田のスーツの袖をつかんだ。そして火がついたように、手をすぐに離した。愕然とした。自分がなにげなくした仕草が、いつもリリーがしているものだと気づいたのだ。昨日切られた右腕が痛むのは、リリーの怒りが傷のうえで燃えているからだと思った。


「……どうした」


 山田はナオコのゆらぐ瞳をみて、心配そうな色をみせた。


「なにかあったのか」


 なにもないとは言えなかった。ナオコは呆然としてしまった。リリーの昨晩の行いの理由が、墨汁をたらしたように胸に落ちて、じわじわと広がっていた。

 彼の妹のような気分になって浮かれ、リリーの居場所を奪っていた。そうナオコはまざまざと感じた。そしていま、自分と山田のあいだにある関係はなんだろう。なんの意味もない人間。ただの取引相手。ただの相棒。ただの……なんだろうか。


 ナオコはふっと顔をあげた。「山田さん、ちょっとこっち」と、袖をひっぱる。リリーの真似だ。ひんやりした自虐が、心の奥でささやいている。これは最後の抵抗だ。


「なんだ」


 彼はおとなしくナオコに引っぱられた。この顔もリリーと居るときによく見るな、と彼女は思った。若干嫌そうに、でも素直に従う兄の表情をしている。

 住宅街をぬけると、駅前についた。人通りが多いが、街なみが雑多になったぶん暗い通りも増えている。ナオコは人目を避けるように、パチンコ屋の裏手にある階段にむかった。そして不審そうにする彼のまえでジャケットを脱いだ。彼は驚いた様子だったが、すぐに右腕の下にあるふくらみに目を奪われたようだった。シャツをめくり、包帯を見せる。


「……どこで怪我を」と、山田が固い声でたずねた。


「昨日うちに帰るさい、ごみ置き場のまえで派手にころんで。そしたらガラスの破片ですっぱりやっちゃいました」


 ナオコは淡々とうそをついた。夢見心地だった。悲しさがお腹の底で浮遊して、勝手に口を動かしていた。もはや彼女にとっては、山田がそれを信じようが信じまいがどうでもよかった。包帯を取ると生傷があらわになる。


「ごめんなさい、あまりきれいじゃないですけれど」


 まだぬらぬらと光っている傷だ。血が止まっているが、刺激すればすぐに液体となってあふれ出しそうな肉の断面。これだけが彼女にとっての最後の手段だった。

 山田は困惑していた。「俺はそんなに顔色が悪いか」とたずねてくるので「ええ、とても」とうなずく。それは本当のことだった。彼はあれから吸血をしていないのか、非常に具合が悪そうにみえた。


「どうか吸ってください」


 ナオコは小首をかしげた。リリーを意識していた。醜い行いだ、とわかっている。だがこうしてみたいと思ってしまった。自分が奪う側であると知ってしまったからには、もうこの行いも最後だ。

 山田に彼女の異変は伝わっているようだった。彼は周囲に目をくばってから、そっと腕を手にとった。歯が皮膚をかじり、傷口にじわりと痛みがしみわたった。

 ナオコは昨日のリリーを思いだしていた。恐怖が共感に変わっていく。あの少女の気持ちが理解できる気がした。本来自分のものであるべき立場を奪われた悔しさ。居場所のない苦しみ。そういうものを誰よりも分かっているつもりだった。


「……なにがあったのか話せ」


 吸血を終えた山田は、静かにそうたずねた。ナオコは笑ってしまった。やっぱり彼は優しい。特殊警備部のみんなに、この顔を見せてあげたいくらいだ。


「もう付き合いきれないんです」


 彼女は明るい声で告げた。山田は無表情になった。


「いま吸血をさせたのは、手切れ金です。これからはリリーから血をもらってください」


 腕ではない場所が痛い。それでも言葉をつづける。


「さっき謝った気持ちは本当です。でも電話で話したことも本当です。山田さんはリリーが大切でしょう? ならわたしと組むよりも、彼女とバディを組んだほうが良いと思いませんか」


 視線をそらしてはならなかった。深呼吸をして続ける。


「付き合いきれないって言ったのは、信頼関係についてです。山田さんはいつまでたってもわたしを信頼してくれませんよね。このあいだのこともそう。そういうの、正直疲れちゃいました。たぶん山田さんとわたしは相性が悪いんです。そういうバディもありなんじゃないかって思っていましたけれど……でも、もっと信頼のおける相棒のほうが良いでしょう? それが特殊警備部全体のためにもなります」


 一息で言いきった。壊れたポンプみたいに心臓が鳴っているが、血は足元へ落ちていく気がした。

 彼は「そうか」と、ただうなずいた。


「君の言うとおりだ。俺たちには……信頼なんてものはなかったな。最初から、最後まで」


「そうですよ」


 ナオコは無理やり笑った。うそですよ、そんなことおもっているわけないじゃないですか。しんじないでくださいよおねがいだから。心のなかで叫んでも、伝わるはずがない。


「わたしからマルコさんにお話ししておきますから、リリーと組んでください。あいにくケビンと彼女も、あまりうまくいっていないようですから」


「もっともな話だ。だが彼には俺から話をしておこう。マルコ殿はバディを変えるのを好ましく思っていないだろうから、君から話をすると丸めこまれる可能性がある」


「丸めこまれるって」


「そうだろう? 君はとことん議論に弱い」


 皮肉っぽい笑みに、ナオコは思わず笑いかえした。そして苦しさが喉の奥をのたうちまわった。


「世話になったな」


 山田はぽんとナオコの背中をたたいた。これまでにないほど気安い仕草だった。

 こちらこそ、なんて言えるはずもなかった。山田は足早にその場を立ち去った。追いかけられなかった。

口にできなかった言葉だけが残った。

 ああ、ダメになったんだ。ナオコはぼんやりと思った。彼の信頼を無に帰した。いや、違った。あると思っていたものが、すべて幻だったとあきらかにしてしまった。


 ナオコは目頭があっというまに熱くなるのを感じた。止めることもできず、ぽろっと涙がこぼれた。階段のすみにへたりこむ。ジャケットをひざのうえに置き、うつむく。裏通りのため、人通りがないのが幸いだった。

 目の前には空き地が広がっていた。きれいな夕日が世界の向こう側から落ちてきていた。

 彼女は息をのんだ。


 山田とこんな夕日のなかを歩いた。あのとき、彼を心から守りたいと思った。そうだ。それはまるで冗談のように鈍感な勘違いだった。今更気づいて、ナオコはひとりで笑った。あの日、あの瞬間に抱いた気持ちの名前を、いまなら正しく言うことができる。もう遅かった。遅すぎた。

 それでも、彼女は唇だけを動かした。

 あなたがすきです、と。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ