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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れる男の夢
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あいまいな月に気をつけろ!

クリスマス特別企画『毒にも薬にもならぬ』を投稿したので、よかったら箸休めにどうぞ。

 飯田と渋谷駅で別れてから、ナオコは家まで歩くことにした。土曜日とはいえ明日も仕事だが、歩いて頭を冷やしたい気分だったのだ。


 十月の夜空は特徴のない空だった。星がなく、月だけがぽかりと浮いている。その月も欠けている途中なのか、それとも満ちている途中なのか分からない。

 ナオコは一人ためいきをついた。山づみの問題を全部道の真ん中において逃げだしたい気分だった。山田もリリーもマルコもケビンも特殊警備部も〈虚像〉も、なにもかも忘れてしまいたい。だがそういうわけにもいかない。

 明日こそは山田にきちんと謝ろう。ナオコは心に決めた。ぐずぐずしていたところで仕方がない。自分たちは相棒なのだ。正直に謝れば、山田だって嫌みのひとつやふたつで許してくれるだろう。マルコにもこのあいだのことを謝罪しよう。そしてケビンに約束したとおりにブージャムについてたずねてみよう。


 ナオコは半ば強制的に自分を勇気づけながら歩いた。

 街灯がぽつぽつと灯る。人気のない住宅街まで来たところで、ふいに立ち止まった。

 一瞬遅れて、ざり、と音がする。ふりかえった。彼女の胸元になにかが突きだされた。紙で思いきり指を裂いたときのような痛みが、自分をかばった右腕に走った。彼女は尻もちをついた。

 きらりと光る銀色が振りおろされる。転がってよけると、刃がアスファルトに弾かれた。

 ナオコは必死で立ちあがり、襲撃者の顔をみた。


 白いワンピースを着た彼女は、真夜中に舞いおりた天使のようだった。黒い髪が首元でふわりと浮き、目はひそやかに細まる。右手ににぎったナイフには、ナオコの血がべっとりとついていた。


「You bitch」


華憐な声にはありったけの憎しみがこもっていた。


「リリー」とナオコがつぶやくが早いか、再びナイフがおどりかかってくる。左側から振りかぶる刃先を半身でよけ、ナオコはバッグを前にかかげた。ぐっさりと突き刺さった黒い革のむこうがわに、彼女の瞳がらんらんと輝いている。

 ナオコはバッグから手を離し脱兎のごとく走りだした。このまま戦ったら殺される、と本能が告げていた。どうしてリリーが襲ってきたのかなんて考えているひまはない。

 しかし眼前に白い布が飛来して、ナイフの先端を鼻先に向けてきた。髪をかきあげたリリーは、これ以上ないほど美しかった。


「……さすが、シホの相棒なだけありますね」彼女は冷静にほほえんだ。

「一撃でやれると思っていたんですが」


 ナオコは口を開けなかった。刃先はいまにも鼻の皮を切りさきそうだし、右腕はじくじくと痛んでいる。しかしこのまま黙っていても殺されるだけだと思い、ふるえるくちびるを開く。


「どうして」


「どうして? どうしてだと思いますか」リリーは笑った。

「あなたがなにも知らないことを、わたしは知っています」


「……わたし、リリーになにかしたの?」


「ええ、しましたよ。もっともアナタは分からないでしょうけれど」


 ナオコにはまったくもって心あたりがなかった。彼女が日本に来たのはつい最近のことだし、まだそれほど関わりもない。


「しにたくないですか?」


 ナイフの切っ先が、ふっと下におりた。胸元を先端がなぞっていく。呼吸がおかしくなりそうで、ナオコは指先すらも動かせなかった。


「しにたくないですよね? あなたには身に覚えのないことですものね」


 ナオコはこくこくとうなずいた。


「じゃあ、質問に答えてください」リリーはにっこりした。

「正直に。でないと、終わりです」


 なにが終わりなのかは、聞かなくてもわかった。


「ひとつめ、あなたの名前はなんですか?」


 ナオコはとまどった。そんなことはとうに知っているはずだ。答えないでいると「はやく」と刃がめりこむ。

「中村ナオコ」とあわてて話すと、リリーは満足気にした。


「ふたつめ、あなたはどこで生まれましたか?」


 ナオコは視線を泳がせた。


「……わからない」


「わからない?」リリーは首をひねった。

「どうして?」


「施設で育ったから……東京都八王子市にある施設。多摩川の河川敷で保護されたから、そこの近くで生まれたんだとは思う」


 リリーは「ふうん」と、さして興味なさそうにした。そして「では、ご両親の顔も知らないんですね」と言った。


「……そうだね」


 ナオコには彼女の意図がまるで分からなかった。まさかこのことをたずねるために襲ってきたわけでもないだろう。ごくりとつばを飲みこむ。リリーは物憂げな表情でだまっている。突きつけられた刃はぴくりともぶれないままだ。


「わたしはHRA本社で産まれました」


 リリーが話しはじめた。


「父親はドイツ系アメリカ人のジョン・タッカー。HRAの〈鏡面〉管理システムを生み出したプロジェクトチームの柱となった人物です。そして、母親は検体番号01」


 口元が不思議な形にゆがんだ。あわれんでいるようにも、あざ笑っているようにも見えた。


「1998年8月23日、わたくしは検体番号14として誕生しました。検体番号07により殺害されかけましたが、無事生還。以来、ブージャムとなるべく修練を積んでまいりました」


 そして、と彼女はほほえんだ。うれしそうな笑顔だった。


「つい先月、ブージャムとして覚醒したわたしに与えられた名前がリリーです。リリー・タッカー。この名前は、あなたの中村ナオコよりもずっと重みのある名前なのですよ」


 ナオコは呆然としてしまった。


「ブージャムって」


「ブージャムは、検体番号を振られたわたしたちスナークの上位種です。日本にはもう一名、検体番号07がいます」


 嫌な予感がした。07とはだれのことを指しているのか見当がついたのだ。


「検体番号07は別名、山田志保。わたくしの唯一無二、そして正真正銘の兄です。ねえ、ナオコさん。なにを言っているのかわけがわからないって顔をしていますね」


 リリーはくすくすと笑った。ナオコはなにも返すことができなかった。彼女の言う通り、なにもかも意味がわからない。ただブージャムと山田に結びつきができたことは、少なからず衝撃を受けていた。由紀恵を殺した〈虚像〉の言っていた「ブージャム」とは、やはり彼のことだったのだ。


「それをわたしに話して、どういうつもりなの……?」


 ナオコがかすれた声でたずねると、リリーは女王のようにあごをあげた。高慢そうにほほえむ唇を、街灯が白く照らす。


「わたしたち兄妹が分かちがたい絆でつながっていると理解してほしいだけです。うじゃうじゃいる人間と違って、わたしたちは特別なんです。そこをあなたみたいな訳の分からない人に邪魔されると困るんですよ」


「邪魔なんて」


「していますよ? 存在自体が、邪魔です」


 ナオコは悲鳴をあげた。刃がぷすりと布を突き刺して皮膚にふれた。彼女はかろうじてひっくり返らなかったが、もはや涙目だった。「どうして」としか言えない。


「どうして? どうして、ですって?」リリーは笑いながら大声をあげた。


「そんなのわたしが聞きたいです! なんでシホはあなたみたいな有象無象に執着しているんでしょう? こんなに普通の人間に!」


 彼女はまるでかんしゃくを起こした子供のようだった。切っ先が胸元を突こうとするので、ナオコは青ざめて体を後ろにそらした。

 リリーは鬼のような形相をして、静かにほほえんだ。狂気がほおを彩って、バラのような血色をさす。ナオコはこんな時なのに見惚れてしまった。リリーはこれ以上なく美しかった。


「わたしたち兄妹は……特別なんです。この世界で唯一同士なんです。それをあなたみたいな女に邪魔されて、シホは国に帰ることができません……」


 リリーは怒りを吐きだすと、真顔になった。そして「ねえ、ナオコさん」と冷たく告げる。


「死にたくないんでしょう? なら、シホとのバディを解消してください」


 ぐっと刃が押された。うなずかないと殺されそうだったが、ナオコは一瞬ためらった。

 リリーが「ねえ」と選択権のなさを示すように力を加える。


「わ、わかった」


 しかたがなく首を縦にふった。彼女は無垢な子供のような笑顔をうかべた。


「よかったです。じつはあなたを殺すとシホがうるさく言うので、同意してくれて助かります」


 彼女はナイフをおろすと、後ろに一歩さがった。


「明日、あなたからシホに伝えてください……このことを話したりしたら」


 続きは言わなくてもわかった。リリーはくるりときびすを返すと歩き去った。


 ナオコはその場でぼんやりと立ちすくんだあと、へなへなとへたりこんだ。なにがなんだか分からなかった。

 山田がブージャムで検体番号07で、そしてリリーもブージャム。

 そもそもブージャムとはなんだ。なんで自分が殺されかけなければならないのか。なにもかも理解不能だ。


 右腕が痛みを増してきていた。ナオコはよろよろと立ち上がり、とりあえず歩きはじめた。病院に行くべきだろうか、と頭をよぎってかぶりをふる。それほど深いケガではない。それよりも傷の存在を知られて大ごとになるほうが問題だ。まだ首元には、ナイフの切っ先がつきつけられているのだから。


 家に向かいながら、ナオコの影は混乱と混とんのまにまに沈んでいった。


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