冷めても食べないと
「すみません、いまのは嫉妬です」飯田は苦笑した。
「付き合いたてで嫉妬なんて、本当に学生みたいですよね? ひょっとして、お仕事のことで悩んでいるんじゃないですか」
ナオコは心底参ってしまった。当たりだ。飯田は本当に人をよく見ている。
「さすが心理カウンセラーですね……」と、感心する。
「心理カウンセラーじゃないですよ」と、彼は恥ずかしそうにした。
「ただ……営業っていうのは、相手の顔色をよく見なきゃいけない仕事ですからね」
最初からぎこちないカラ元気は看破されていたようだ。気恥ずかしくなって「すみませんでした」と小さくなる。
「頼れないとか、そういうふうに思っていたわけじゃないんです」
「大丈夫ですよ。話しづらかったら、ぼくの昔話でもしますし。そうですね、兄たちの東大あるあるとか、けっこう飲み会の受けがいいですよ?」
飯田がおどけたように話すので、感謝の気持ちがうまれた。本当に彼は気づかいの人だ。
「以前に話した、上司の話おぼえていますか?」とナオコは切りだした。
「じつはその人にひどいことを言っちゃって……それで少し落ちこんでいます。情けない話ですが」
実のところ事態はもっと複雑かつ深刻なのだが、それを彼に話すことはできない。ただ山田との気まずさは目下の悩みだった。
「ひどいこと、ですか」
飯田がなんともいえない表情をした。あなたがそんなひどいことを言うだろうか、と懸念するような顔だ。
ナオコが言葉に詰まったので、彼は「ああ、いいですいいです。無理やり話さなくて」と、あわてた。
「いえ、話せないことではないんですけれど」
いっそのこと言葉にしてしまったほうが良いだろう。ナオコはそう考えて、とつとつと語りはじめた。
「彼が世話を焼いてくれたことにたいして、要らないお節介だったって言っちゃって。そんなこと思ってもいなかったのに……いろいろ仕事がうまくいっていなかったのを八つ当たりしてしまったんです」
彼女は口を動かしながら、自己嫌悪がもやもやと形作るをのを感じた。
あらためて口にすると、あの言葉はそれ以上のなにものでもなかった。ただのバカみたいな八つ当たりだ。山田は妹の様子を聞くために電話をしただけなのに、それに勝手にかみついたりして、なんて自分勝手なのだろう。
「あの、その上司って男性ですよね?」
飯田が動揺の色を見せた。
ナオコは「そうですよ」とうなずいた。
「そうですよね、前に話していたときも『彼』って言っていましたもんね……」
彼は口をもごもごと動かして、目をふせた。
「世話って、どんなことをしていただいたんですか?」
なぜか飯田の声が固い。
「危ない目にあいそうになったときに助けてもらったりとか、あと妙な話なんですけれど、服を頂いたりしたんです。わたしが早く寿退社するための投資だとか言って」
ナオコは彼の様子を怪訝に思いながらも、そう話した。
「変わった人なんです。世間ずれしているというか」
「……ちなみに、その上司の方はおいくつですか?」
なぜそんなことをたずねるのだろう、と思いつつ「28って言っていました」と答える。
飯田は両手を口に当ててテーブルにひじをついた。まるで今、手を離してしまったら口からとんでもない言葉が出てしまうので、それを必死に押しこめているかのようだった。
「あの……飯田さん?」
ウェイターが料理を運んできた。
彼は固い表情で「ありがとうございます」と礼を言った。
湯気をたてた料理ごしに、二人してだまる。いままで彼との間にしょっちゅう発生していた沈黙とは、種類が違う。
彼の表情から見たことのない雰囲気がただよっている。
「すみません」と、飯田が唐突に謝った。
「それセクハラだと思います。正直」
どこかで聞いた言葉だな、とナオコは思った。飯田の言葉の衝撃が強すぎたために、彼女の脳内は過去を検索しはじめる。せくはら、せくはら……どこで聞いたのだろうか。
「まえの話を聞いたときも、実はパワハラ案件だなって思っていました。でもナオコさんが頑張りたいみたいだったから、それはそれでいいって思ったんです。でも、それに続いてそういうことがあると」
ああ、そうだ。セクハラではない。パワハラだと言われたのだ。いつだったか山田に手首を縛られたとき「それってパワハラだよ」とマルコに言われた……彼女は心のなかで手を打ってから、怒りに燃えた飯田をそうっと見た。
現実逃避をしているのは分かっている。ただ彼は相当に頭にきているようだった。
「自分の彼女がそういう場所で働いているのを知って、そっかあってうなずいていられるほど大人になれないです。口出ししていいことじゃないのは分かっているけど」
「あの、飯田さん」
どうにか落ち着かせたかったが、彼はしゃべるのを止めない。
「服をあげる、なんてまさにそうじゃないですか。あなたの気持ちも考えず寿退社をすすめるなんて、時代錯誤もはなはだしい。警備会社だからってどうこう言うつもりはないですけれど、体育会系だからって許される話じゃないですよ」
「飯田さん」
「ほかに嫌なことされていませんか? すみません。もしかすると、ぼくが変な方向に背中を押してしまったからかもしれない。ああ本当に……」
頭をかかえる彼に「あのっ」と、少しだけ声をはる。
「心配してくれるのはありがたいですけれど、でも悪い人じゃないので」
ナオコは彼が心配しないように愛想笑いをうかべて釈明したが「いえ、悪い人です」ときっぱり否定されてしまった。
「ナオコさんは優しいから絆されてしまっているんです。言いすぎかもしれないけれど、その人、常識的に考えて良い人間であるとは言いがたいですよ……かばいたい気持ちも分かりますけれど」
彼女はほんの少しだけ腹が立った。なぜ山田に会ったこともない飯田が断言するのだろう。
「たしかに常識的ではないですけど。でも心配してくれたのは本当です。助けられたことも何度もありますしっ」
「上司が部下を助けるなんて当たりまえです。それで恩を売ったかのように振る舞うほうがおかしい」
有無を言わせない言葉に、ナオコは口を閉ざした。こ彼に対抗する言葉を持ち合わせていない。
彼の主張はまったくもって正しい。山田が常識的におかしいことは、自分にだって分かっているのだ。
ただ否定してほしくない、と彼女は思った。それは山田が良いやつだ、なんておためごかしを言いたいのではない。今は背中しか見えない彼のかすかな優しさを、まるっきりないものとしてほしくなかった。それだけの、ささいな切なさだった。
反論しなくなったナオコを、飯田は複雑な表情でながめた。
「……心配なのは、ぼくだってそうです」
「そう、ですよね」
「すみません。料理、さめちゃいますね。食べましょうか」
ぎこちない雰囲気のまま食事は終わった。
田園都市線のホームまで歩く。会話は弾まなかった。
少々混雑したホームは陰鬱に明るく、ごちゃごちゃした看板を背にした彼は気まずそうに口をひらいた。
「つまらない気持ちにさせてしまってすみませんでした。でもお願いですから、つらいときは頼ってくださいね。愚痴を聞くだけでもかまいませんから」
ナオコは心底悪いことをしているような気になった。彼の発言は自分を思ってのことなのに、それをさっきみたいに無碍にするなんて良くない。
「ありがとうございます。やっぱりいま、わたし、冷静じゃないみたいで。飯田さんのこと頼らせてくださいね」
そう言いながら彼女は深々と頭を下げた。しかし、やはり彼の顔色はすぐれない。
「たつや」と、彼がつぶやいた。
「え?」
「達也って呼ぶ話、忘れないで」
彼はさみしそうにほほえんだ。罪悪感がせまってきて「ごめんなさい、慣れなくて」と彼女はおろおろした。
「いいんですけれど……でも、さみしいですよ。もっと感情的になってくれないと、その」
「感情的?」
彼はきゅっと口を結んで、そのあと「飲み物買ってきます」と自販機に向かっていった。
ナオコは途方にくれた。なにかが彼の琴線に触れたようだったが、正直どこが問題だったのか分からない。
名前を呼ぶことを忘れていたのがまずかったのだろうか。自分たちは恋人なのだ。少しはそれらしい意識をもたなければ、と思う。しかし飯田のことを彼氏だと、いまいち認識できなかった。人のいい男友達といるような気になってしまうのだ。