冷めるまえに食べないと
それからしばらくの間、HRA特殊警備部は山田秀介の話題でもちきりとなった。
彼が本社研究部のトップかつアルフレッドの右腕であったことはすぐに広まり、さらに山田との関係もひそやかにささやかれた。父親に違いない。いや、顔が似ていないからアカの他人に違いない。もしかして義理の父親なんじゃないか。本社の〈芋虫〉は拾われてくると聞くから。
「ああ、だから」と〈芋虫〉の一人が嘲笑した。
「だからあのシスコンっぷりね。家族がいないんだな……それなら、あんな冷血人間に育ってもしかたない」
ナオコはパソコンを閉じた。彼らは彼女をちらりと見ると、おたがいに視線をかわして肩をすくめた。
「おい中村。あんまり我慢しないほうがいいぞ」
彼女は荷物をまとめながら「我慢?」とたずねた。
「最近のあいつには我慢ならんだろう。バディはおまえだっていうのに、やれリリーほらリリーってよ」
彼らは声を低くしてささやいた。
「ま、カワイイのは認めるけど」と、一人が目をくるりと回す。
ナオコは彼らをにらんで「べつに、ガマンなんてしていませんけれど?」と返した。彼女の背後から怒りのオーラが立ちのぼっていた。
「山田さんにとっては、唯一無二の妹さんなんです。それでこっちは、ただのバディですから。べつにあの人が仕事終わりに、彼女のもとにすっ飛んで行こうともわたしには関係ないことです。そう思いませんか?」
まくしたてながら、バッグに乱暴にものを詰めこんでオフィスを後にしようとする。「中村、充電器わすれてるぞ」と指摘されたので、つかつかと戻り、充電器をコンセントからむしりとり、今度こそ部屋を出た。
ナオコは駅までの道を行きながら、もやもやした気持ちをもてあました。
山田の父親が亡くなっていることは、マルコと山田両人から確認した話だ。新たなCEOである山田秀介と山田本人は似ても似つかないし、実の父親ではないと思われる。
だがそれを特殊警備部の人々に弁明したところで、なにが変わるというのだろう。
山田の父親についての話を吹聴するような真似は絶対にしたくないが、そうすると誤解を解くこともできない。
さらに業腹なのは、彼らの山田への態度だった。リリーが来てからというもの、以前よりも表立って彼を悪く言うようになった。
それに巻きこまれるリリーもかわいそうだ、とナオコは思っていた。山田に関しての悪口も聞いていて気分が悪いが、リリーにいたっては巻きこみ事故である。日本に来たばかりなのに腫れものに障るような扱いをされていたのでは、はるばる海を渡った意味もない……。
そう考えていたナオコだったが、心のうちに住んでいる悪魔が「まあいいんじゃない」と薄ら笑いを浮かべているのも事実だった。だってリリーは山田さんがいれば、他はどうでもいいみたいだから。
ナオコは邪念をふりはらおうとした。なにを人の悪いことを考えているのだろう。いくら大切な兄がいようと、こんな辺境の土地にきて心細くないわけがないのだ。山田だって彼女が心配なだけだ。前よりも自分と話をしてくれなくなったのは、ひとえに電話で酷いことを言ってしまったからだ。
ナオコはいまだに謝れていないことを落ちこんだ。すっかり機会を失ってしまったのだ。
自分も彼らのことを偉そうに言えた義理ではない、と彼女は憂鬱を背負った。正義漢ぶってるほうがよっぽど性質が悪いというものだ。
ナオコは沈んだ気持ちのまま、三軒茶屋についた。駅から数分歩いたところのビルに入っているイタリアンレストランの扉をひらく。店員に案内されていくと「ナオコさん」と、奥に座っていた飯田が手をふった。
「お待たせしました」と彼のまえに座る。「すみません、仕事が長引いちゃって」
「いいんですよ、じつはぼくも遅刻しましたし」
飯田は冗談っぽく笑う。ナオコはぎこちなく笑いかえした。
おおよそ3週間ぶりのデートだった。実は10月あたまにデートの誘いがあったのだが、あの時はそんな余裕がなかったため、断ってしまっていた。
本心では、今日も気乗りはしなかった。こんなぐちゃぐちゃの精神状態で会うことにためらいもあったし、家に帰って心行くまで落ち込みたい気持ちだった。
しかし付き合ってすぐの誘いを断った申し訳なさもあって、今日のデートは了承してしまった。
「なに食べましょうか?」飯田は身を乗り出して、メニューを差しだした。
「そうですねえ、どうしましょうか」
ナオコは無理やり明るい声をだしてメニューを眺めた。食欲はゼロだ。どちらかというとコーラとピザでもほおばりながら、一人で毛布をかぶって映画を観ていたい気持ちである。
「うーん、ナオコさん辛いの大丈夫ですか?」なんて言いながら、彼が二、三品を選んだ。おすすめのワインを店員にたずねて、それを頼んだ。
「久しぶりに会えてうれしいです」
飯田は率直な物言いをした。
「こんな年になって恥ずかしいんですけれど、なんだかここ数週間はソワソワしちゃって……まだまだガキだなって思いましたよ、ほんと」
彼は付き合う前よりも少しだけ砕けた言葉づかいをして、照れくさそうに笑った。
「わたしもです」
ナオコはほほえんで見せた。ソワソワどころか彼を思いだす余裕すらなかったことは、口が裂けても言えない。
ワインが運ばれてきた。乾杯をして口にふくむ。彼が話しだすよりも先に「最近はどうですか?」と投げかけた。今日は彼にだけ喋ってもらう必要がある、と思っていた。
今のナオコにとって、自分の近況を聞かれてもすべてを話すことは到底不可能だ。それならば飯田の話を聞くことに徹底するしかない。
「ああ、そうです! 話したいことがあって」
ナオコにとっては幸運なことに、彼は水を向けられて顔を明るくした。
「このあいだ、じつはもう一度ヘルプでボーカルをやらせてもらったんです。それを例のベースの子が観に来てくれたんですよ」
「ベースの子って、鬱になってしまった……」
「ええ。ぼくが出るって聞いて、来てくれて。本当にうれしかったですよ。それで、いろいろ話したんです。バンドのこととか、これからのこととか」
彼は感極まったような吐息をはいた。
「それで、もう一度やりなおすことに決めました」
「バンドに戻るんですか?」
「じつはボーカルの子が帰省していたんですけれど、どうにも家業を継がなければいけなくなったそうで。その子も、もし次のボーカルを選ぶなら、もともと歌っていたぼくにしてほしいって言ってくれたそうで……」
彼はありがたそうに話した。
「そこまで言ってくれる人がいて、うじうじしているわけにもいかないな、と。調子いいかもしれませんけれど、でもやっぱり歌っていて楽しいから」
「……よかったです」
ナオコはよどんだ気持ちに少しだけ日が照ったような気がした。飯田が歌をやめてしまうのはもったいないと思っていたのだ。
「わたしもうれしいです。また飯田さんのライブを観に行けるんですね」
「ええ、来てほしいです。こういう決断ができたのも、ナオコさんのおかげなので」
彼はこめかみをかいて、ほほえんだ。
「なんというかですね。ナオコさんみたいな人に歌を届けたいなあって思ったんです。うまいかどうかとか、才能があるかどうかは知らないですけれど、でも」
緊張が伝わってきた。彼はひとつせきをすると、ナオコを真正面から見つめた。
「すごくまっすぐじゃないですか。ナオコさん……そういう人の背中を押せたなら、ぼくがまだ歌う意味ってあるんじゃないかって思ったんです」
視線をそらせなかった。ごまかそうと思っても、彼にそんなことは通用しないと直感的に思ってしまった。だから思わず出た言葉は「まっすぐなんかじゃないです」という情けないものだった。
「ぜんぜんダメですよ、わたし」
彼女はそう口走ってから、しまった、と思った。情けない表情を隠そうと「飯田さんに比べると、とてもとても」と冗談めかしてつづける。
「えっと、次のライブはいつなんですか? 観に行きます」
「ナオコさん、ぼくら付き合っていますよね」
唐突な話題変更に口をつぐむ。飯田は穏やかな表情をしている。
「付き合っていますよね?」と、くり返された言葉に気おされて「はい」とうなずく。
「よかった」彼は苦笑した。
「それならそういう隠し立ては、なしにしましょう。すごくへこんでるでしょ、ナオコさん」
「……へこんでなんて」
ナオコは口をついて出た子供のようなセリフに恥ずかしくなった。「やっぱり、へこんでます」
「ですよね。来たときから、なんかおかしいなとは思ってましたけど……言ってくださいよ。そんなに頼りがいないですか、ぼく?」
ナオコはあわてて首を横にふった。
「そんなことは……」と言いかけたのを、飯田が止めた。