よくある苗字なので気にしないでください
10月22日月曜日、朝の9時に株式会社HRA本部における新たなCEOの就任式が行われた。
日本支社の各部署は業務のさなか、各々のパソコンを通じてその様子を眺めた。特殊警備部の面々もコーヒーを片手に遠い地で開かれている式を見ていた。
画面を退屈そうに眺めていた一人が「おい」と声をあげた。「うそだろ」
ナオコはみんなから離れた場所でぼんやりとしていたが、その声を聞いてなにごとかと目を向けた。
「中村、これ見ろ」と呼ばれて、のそのそと近づく。
画面には中年のアジア系男性が登壇してスピーチをしている様子が映っていた。どこか親近感をおぼえる顔立ちに「日本人ですか?」とたずねる。
「ばか、見るのはそこじゃない」
登壇台の右上に置かれたプレートが指さされれる。Syusuke Yamada。シュウスケヤマダ。山田秀介。
「は?」
「なあ、これって」
みんなが困惑した表情をしている。
「こんなことありえるのか?」
「山田なんて珍しい苗字でもないだろう」とだれかが反論するが、それに「HRAに居る日本人がそもそも少ないのに? 偶然だとは思えんが」と答える声もした。
ナオコは真っ白になった頭で、その日本人を穴があくほど見つめた。アジア人らしい小作りな顔立ちだ。目元は柔和で、山田の鋭い印象を与える目とまったく似ていない。だけれども偶然にしては、できすぎている気もした。
オフィス中の視線がいっせいに扉へと向いた。ナオコも遅れてそちらを見た。
山田はこうなることを予測していたように、冷めた顔をして立っていた。その背後にはリリィがひかえていて、スーツの袖をちょこんと引いている。
「……説明する必要があるか?」
彼は静かに、だがオフィス中に届くような声で言った。
〈芋虫〉たちは視線を交わしあうと、彼の横を通りすぎて部屋を出ていった。
「父親がいるなら、アメリカに帰ったらどうだ?」と、だれかが嘲笑したが、彼はにらみつけもしないで自身の机にむかった。
このあいだのことが気まずくて、ナオコは話しかけることができなかった。本当なら今すぐにでも謝罪をしたいが、彼は彼女なんて見えてもいないように振る舞っている。
「ナオコさん、おはようございます」リリィが近づいてきた。
「新たなHRAの始まりを日本で見届けることができて、わたくし、うれしいかぎりです」
あいまいにうなずいて「そうだね」と返す。
「シホもうれしいですよね? シュウスケは研究者のなかでもとびきりに優秀でしたし、本社ではお世話になりました」
彼はリリィに視線をやって、ついでナオコをみた。つい肩を縮こませる。
「HRAは実務よりも研究を重んじるからな。彼が選ばれたのは、まあ当然かもしれない」
山田はふいと目をそらした。そして机から書類を取りだすと、オフィスを出ようとした。
「それじゃあ、ナオコさん。また」リリィが笑いながら後を追う。
「山田さん」ナオコはつい彼を呼んだ。声はかすれていた。
彼は振りむいた。ガランとした無関心が顔に貼りついている。
山田は黙っていたが、リリーが袖を引っぱるとそちらに目をやった。ナオコは言葉が出てこなかった。
「シホ、わたし駅に行きたいんですけれど」と、甘えた声を出す。
「あ、それなら、わたしが案内するよ」
ナオコは沈黙から逃げるように言った。
「ここから駅まで遠いもんね。よかったら……」
「不要だ」
山田が言葉をさえぎった。その響きは部屋中が凍りつくほど冷徹で、彼自身さえも驚いているように思えた。ナオコは二の句をつげなかった。昨日の今日だ。
「そうですか」と言って、オフィスを早足で出る。背中に他の〈芋虫〉たちの同情が突き刺さるのを感じた。
午前11時ごろまで時間をつぶしたあと、ナオコは山田の私室のまえでためらっていた。今日は月曜日だ。吸血をされる日である。
思いきってノックをする。「山田さん」と声をかける。扉は開かない。もう一度してみるが、やはり開かない。
「あら、ナオコさん?」
諦めかけたときに現れたのは、リリーだった。彼女は目を丸くしてナオコをみると、ついで天使のようなほほえみをうかべた。
「ナオコさんも知っているんですね。まあ、バディなら当然ですか」
ナオコは動揺を隠そうとした。リリーがいることを当然だ、と思おうとする。彼女は妹なのだ。隠れ家があることくらい、教えるに決まっている。
「リリー、山田さんは」と話しかけながら、視線をおとした。
リリーの肩に腕がのびて、彼女の代わりに山田が出てきた。「なんの用だ」と話しかける声は硬い。
「なんの用って……今日、月曜日ですよ」
「金曜日に来ただろう」
すげなく返される言葉に怯えながらも「顔色、悪いです」と言う。彼の顔色はいっそ土気色と言ってさしつかえないくらい悪かった。
「シホ、ナオコさんになにか用なら、おいとましましょうか?」後ろからさりげなくリリーが声をかけたのを山田が「いい」と引き留める。
それを見て、ナオコは一歩さがった。これ以上彼らの邪魔はできなかった。いや、彼らの邪魔者のように扱われるのは耐えられなかった。
「わかりました。それじゃあ、また今度に」ぼそぼそと言いながら、きびすを返す。これこそ当然のことながら、引き留められなかった。
仕事の最中にも山田とは最低限の話しかしなかった。
ナオコは謝罪をしなければとずっと思っていたが、それを許さない雰囲気があった。彼はぴりぴりとしていた。それが昨日放った暴言のせいなのか、それとも別の理由のせいなのか検討もつかなかった。
ただ背中には、触れてくれるなとの看板がかかっているように見えた。一度開きかけた扉がしまったように感じて、ナオコはやるせなかった。