表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れる男の夢
75/173

よくある苗字なので気にしないでください

 10月22日月曜日、朝の9時に株式会社HRA本部における新たなCEOの就任式が行われた。

 日本支社の各部署は業務のさなか、各々のパソコンを通じてその様子を眺めた。特殊警備部の面々もコーヒーを片手に遠い地で開かれている式を見ていた。


 画面を退屈そうに眺めていた一人が「おい」と声をあげた。「うそだろ」


 ナオコはみんなから離れた場所でぼんやりとしていたが、その声を聞いてなにごとかと目を向けた。

「中村、これ見ろ」と呼ばれて、のそのそと近づく。


 画面には中年のアジア系男性が登壇してスピーチをしている様子が映っていた。どこか親近感をおぼえる顔立ちに「日本人ですか?」とたずねる。


「ばか、見るのはそこじゃない」


 登壇台の右上に置かれたプレートが指さされれる。Syusuke Yamada。シュウスケヤマダ。山田秀介。


「は?」


「なあ、これって」


 みんなが困惑した表情をしている。

「こんなことありえるのか?」

「山田なんて珍しい苗字でもないだろう」とだれかが反論するが、それに「HRAに居る日本人がそもそも少ないのに? 偶然だとは思えんが」と答える声もした。


 ナオコは真っ白になった頭で、その日本人を穴があくほど見つめた。アジア人らしい小作りな顔立ちだ。目元は柔和で、山田の鋭い印象を与える目とまったく似ていない。だけれども偶然にしては、できすぎている気もした。


 オフィス中の視線がいっせいに扉へと向いた。ナオコも遅れてそちらを見た。

 山田はこうなることを予測していたように、冷めた顔をして立っていた。その背後にはリリィがひかえていて、スーツの袖をちょこんと引いている。


「……説明する必要があるか?」


 彼は静かに、だがオフィス中に届くような声で言った。


〈芋虫〉たちは視線を交わしあうと、彼の横を通りすぎて部屋を出ていった。


「父親がいるなら、アメリカに帰ったらどうだ?」と、だれかが嘲笑したが、彼はにらみつけもしないで自身の机にむかった。


 このあいだのことが気まずくて、ナオコは話しかけることができなかった。本当なら今すぐにでも謝罪をしたいが、彼は彼女なんて見えてもいないように振る舞っている。


「ナオコさん、おはようございます」リリィが近づいてきた。

「新たなHRAの始まりを日本で見届けることができて、わたくし、うれしいかぎりです」


 あいまいにうなずいて「そうだね」と返す。


「シホもうれしいですよね? シュウスケは研究者のなかでもとびきりに優秀でしたし、本社ではお世話になりました」


 彼はリリィに視線をやって、ついでナオコをみた。つい肩を縮こませる。


「HRAは実務よりも研究を重んじるからな。彼が選ばれたのは、まあ当然かもしれない」


 山田はふいと目をそらした。そして机から書類を取りだすと、オフィスを出ようとした。


「それじゃあ、ナオコさん。また」リリィが笑いながら後を追う。


「山田さん」ナオコはつい彼を呼んだ。声はかすれていた。


 彼は振りむいた。ガランとした無関心が顔に貼りついている。

 山田は黙っていたが、リリーが袖を引っぱるとそちらに目をやった。ナオコは言葉が出てこなかった。


「シホ、わたし駅に行きたいんですけれど」と、甘えた声を出す。


「あ、それなら、わたしが案内するよ」


 ナオコは沈黙から逃げるように言った。


「ここから駅まで遠いもんね。よかったら……」


「不要だ」


 山田が言葉をさえぎった。その響きは部屋中が凍りつくほど冷徹で、彼自身さえも驚いているように思えた。ナオコは二の句をつげなかった。昨日の今日だ。

「そうですか」と言って、オフィスを早足で出る。背中に他の〈芋虫〉たちの同情が突き刺さるのを感じた。






 午前11時ごろまで時間をつぶしたあと、ナオコは山田の私室のまえでためらっていた。今日は月曜日だ。吸血をされる日である。

 思いきってノックをする。「山田さん」と声をかける。扉は開かない。もう一度してみるが、やはり開かない。


「あら、ナオコさん?」


 諦めかけたときに現れたのは、リリーだった。彼女は目を丸くしてナオコをみると、ついで天使のようなほほえみをうかべた。


「ナオコさんも知っているんですね。まあ、バディなら当然ですか」


 ナオコは動揺を隠そうとした。リリーがいることを当然だ、と思おうとする。彼女は妹なのだ。隠れ家があることくらい、教えるに決まっている。


「リリー、山田さんは」と話しかけながら、視線をおとした。

 リリーの肩に腕がのびて、彼女の代わりに山田が出てきた。「なんの用だ」と話しかける声は硬い。


「なんの用って……今日、月曜日ですよ」


「金曜日に来ただろう」


 すげなく返される言葉に怯えながらも「顔色、悪いです」と言う。彼の顔色はいっそ土気色と言ってさしつかえないくらい悪かった。


「シホ、ナオコさんになにか用なら、おいとましましょうか?」後ろからさりげなくリリーが声をかけたのを山田が「いい」と引き留める。


 それを見て、ナオコは一歩さがった。これ以上彼らの邪魔はできなかった。いや、彼らの邪魔者のように扱われるのは耐えられなかった。


「わかりました。それじゃあ、また今度に」ぼそぼそと言いながら、きびすを返す。これこそ当然のことながら、引き留められなかった。


 仕事の最中にも山田とは最低限の話しかしなかった。

 ナオコは謝罪をしなければとずっと思っていたが、それを許さない雰囲気があった。彼はぴりぴりとしていた。それが昨日放った暴言のせいなのか、それとも別の理由のせいなのか検討もつかなかった。

 ただ背中には、触れてくれるなとの看板がかかっているように見えた。一度開きかけた扉がしまったように感じて、ナオコはやるせなかった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ