疑わしき自分
「すみません、夜分遅くに」
ナオコは執務室を訪れると、まず一番に謝罪をした。するとマルコはいつもどおりの優しい笑顔で「今から帰ろうと思ってたから、ちょうどよかったよ」と返し、中に招きいれてくれた。
「リリーくんの引継ぎのこととか、新しい本部長の発表のアナウンスとか、いろいろやらなきゃいけない事務仕事が多くてさ。これが終わったら、もっとのんびりできるんだけど」
暗く陰鬱なトレーニングルームとは対照的に、執務室は明るく整然としていた。病院の待合室のような雰囲気だ。光に満ちあふれた緊張は、彼女がかたずをのんでマルコに臨んでいるからに他ならない。
彼は彼女の表情がすぐれないのをみとめると「どうしたの?」と眉尻を下げた。
「話したいことがあるってメールに書いてあったね。いまお茶を入れてくるから、すわって待っていて」
「あ、いいんです。すぐに終わるので……」と彼女は断りをいれた。
「そんな思いつめた顔されて、いいわけないでしょ。お茶くらい飲んでいきな」
マルコは苦笑いをして、私室へ引っこもうとした。
「ブージャムについて、教えてほしいんです」と、切羽詰まった口調でたずねる。
扉がしまった。ナオコはきょとんとした。聞こえなかったのだろうか、との懸念がよぎったタイミングで彼は顔をだした。
「なんて言った?」と首をかしげる。
ナオコはもう一度言おうとした。しかし唇はのりでくっついてしまったかのように、ぴたりとして動かない。風邪をひいたときのような寒気がした。
「……とりあえずお茶いれてくるから。待っててね」
彼はウィンクをして、ふたたび顔をひっこませた。
ナオコは自分の手が震えていることに気づいた。静かなパニックが忍びよっている。
扉がしまる瞬間にのぞいた瞳を思いだす。快晴の空を映しとったブルーは、なにもかもを反射する鏡のようにこちらを見つめていた。
その場に凍りつく。由紀恵の疑念が乗り移ったかのようだった。
精神分離機を作った人間だから。彼の精神分離機から鏡が出てきたから。由紀恵がマルコを疑っていた理由は、たったそれだけなのだろうか。
マルコは山田が〈虚像〉をひそかに倒していることを、本当に知らなかったのだろうか?
「ごめんなさい、マルコさん! わたし、用事を思いだしました!」
ナオコはそう叫ぶと部屋を飛びだした。失礼千万な行いだったが、それどころではなかった。心臓が爆発しそうなほど鳴っていた。火事の現場から逃げだすときのような恐怖と焦りが全身をつつんでいた。
エレベーターに入って1階のボタンを連打する。執務室からマルコが出てくるのが怖くて、壁のはじによる。ゆっくりと閉まる扉の向こうがわで、執務室の扉がひらいた。
ぱたん、とエレベーターがしまった。
彼女の膝に、ずっとこらえていた涙がおちた。ずるずるとその場にしゃがみこみ、顔をおおう。
もう我慢できなかった。なにを信じればいいのかすら、今の彼女には分からなかった。
ゆきえさん、とつぶやく。こんなとき、いつも励ましてくれたのは彼女だった。優しく背中をたたいてくれた手のひらは、もうどこにもない。
ポケットの中が震えた。顔をぬぐって画面を見る。山田からだ。
電話にでると、すぐに「山田だが」と聞こえた。ナオコは声を出せなかった。しゃくりあげるのをおさえるために唇をかむ。
「ナオコくん?」とけげんそうに呼びかけられて、ようやく「はい」と返せた。
「どうした」山田は急に険のある声になった。
「やっぱり、なにかあったな」
「……なにもありませんよ」
携帯を両手でつかみ、彼の声に耳をすませる。そうしていると少しだけ安心する。
だが、その気持ちも次の瞬間に消えうせた。
「リリーとひと悶着あったんだろう」
ナオコはずたずたの心にさらに釘を打たれたようだった。
もう流れる血も残っていないというのに、ここにきてまた責められるのか。疑われるのか。
「話せ」と催促されて、なにかのタガが外れた。
「いい加減にしてください」
勝手に口が動く。
「なんなんですか、今朝から。仲良くするなだの、世話は任せられないだの……そんなに妹さんが心配なら、わたしなんかに連絡しないでずっと見張ってたらどうですか?」
電話の向こう側は沈黙をまもっていたが、ナオコはそんなことに気づかなかった。話しているうちに、悲しみが増幅して、それをかき消すための怒りが口からこぼれ落ちていく。
「正直迷惑だったんですよ。妹さんの代わりだったかなんだか知りませんが、勝手に恋愛相談のってみたりお節介かけておいて、いざ当人が来たら悪い虫みたいに扱うじゃないですか。まあ兄妹仲良くするならご勝手にどうぞって感じですけど。でももうああいうことはやめてください。大事な妹さんに嫉妬されちゃいますし」
勢いよくまくしたて、彼女はわれにかえった。電話がつながっているのかどうか分からない。かすかな低い電子音だけが、向こう側に聞き手がいると表している。
ナオコの顔から血の気がひいていく。不気味な沈黙が電話ごしに流れる。
「……ごめんなさい」耐えきれなくなって、つぶやく。
「こんなこと、言うつもりじゃ」
「いや、悪かった」
携帯を握る指先が凍りついた。それくらい彼の声は冷ややかだった。
「たしかに要らん節介だったな。迷惑をかけた。これからは不愉快な思いをさせないように気をつけよう」
「ちが、違うんです」ナオコは必死に撤回の言葉を言おうとしたが、一度放ったものは返ってこない。
彼は淡々と「否定しなくてもいい」と言った。
言い訳をするひまは与えられなかった。「じゃあな」と、一方的に電話が切られる。
ナオコはへなへなとその場にしゃがみこんだ。涙はもう出てこなかった。自分に呆れかえって、悲しみの井戸すら枯れてしまった。