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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れる男の夢
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疑わしき事実

 ナオコは食堂で夕飯を食べてから、トレーニングルームへ向かった。モニタールームをのぞいたが、がらんとしている。そこでトレーニング機器が集められた部屋を見てみると、当たりだった。彼はアブドミナルに腰かけて、じっと壁をにらんでいた。

 一個だけ照明をつけた部屋はうす暗い。20時すぎにもなると、自分たち以外にはだれもいなかった。


「ケビン、なんの用?」


 今日彼は宿直ではないので、わざわざ自分の帰社を待っていたのだろう。ナオコは機械が静かに並ぶなかを進みながら、そうたずねた。

 彼は彼女を横目で確認すると、器具から足をぬいた。しかし、いくら待ってもしゃべりださない。「ケビン?」と首をかしげる。


「……話したいことがある」彼はようやく口をひらき、警戒したように視線を左右に動かした。


「うん、なんの話?」


「このあいだの戦闘のことだ。おまえ、あれからなにか話を聞いたか?」


 ナオコは一気に気持ちがしずんだ。明るい話題を振られるとは思っていなかったが、この話を持ちこまれるとは予想していなかった。彼女はだまって首を横にふった。


「だよな。おまえ、とっとと気持ちを切り替えたみたいだし」


 冷たい声色だった。「そういうわけじゃ」と反論すると、彼はそっけなく「悪い」とつぶやいた。


「でも、俺にはそう見える……さっさと切りかえるべきだって、俺も中村の立場なら思う。いつまでもグダグダしていたって、なんも変わらねえしな」


「……ごめん。でもわたしも、気持ちを切りかえられたわけじゃないよ」


 由紀恵の死は静かになった瞬間に訪れる。本社への帰り道にたわいのない話をしたこと、休憩室で相談をしたこと。ナオコは彼女がそっと顔をのぞきこんでくる想像が頭から離れなかった。黒い綺麗な髪がほおの前に垂れ、優しくほほえむ。

 それで「忘れないで」とささやくのだ。そんなことを彼女は言わないと分かっているのに。

 悲しみを忘れる一番の方法は、普段通りの生活を送ることだった。そういう意味でケビンの発言は正しい。自分は早く由紀恵のことを忘れなければと焦っている。そうしなければ前に進めない。


 ケビンは彼女の言い分になにも返さなかった。「読んでほしいものがある」と言うと、器具の横に置いてあったリュックサックから数冊の文庫本を取りだした。


「だいぶまえに、由紀恵にむりやり渡された」


 本は全部で4冊あった。心当たりのあるタイトルに、ナオコはハッとした。


「『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』『シルヴィーとブルーノ』『スナーク狩り』」


 ケビンは『鏡の国のアリス』を手にとり、ぱらぱらとめくった。


「ぜんぜん読む気なかったんだけどよ、なんかさ、読んでみないといけない気がしてな」


「……そうなんだ」


 ナオコは本の紙一枚一枚に由紀恵の存在を感じる気がして、うつむいた。


「ああ。それでだ、これ見ろ」


 ケビンは『スナーク狩り』をめくり、ページを指さした。それを見たナオコは肩をこわばらせた。


「ブージャム……ってこれ」


「よく聞き取れなかったけどさ、あのしゃべる〈虚像〉が言っていたよな」


 彼は「ブージャム」と、かみしめるようにつぶやいた。


「中村、おまえどう思う?」


 ナオコは指さされたページを読んだ。


「静かにとつぜん消えてしまって、二度とこの世で会えなくなるだろう……スナークっていう怪物の、さらに上がブージャムってこと?」


「そういう意味らしいな。よく分からんが。なあ、あいつら、山田にむかってブージャムって呼びかけていたよな」


 ナオコは口をつぐんだ。視線をそらす。


「分からない。もしかしたら掛け声みたいなものだったのかも……」


「いや、絶対に山田に呼びかけていた」


「そんなの分からないってば!」


 思わずきつい口調になって、ナオコは口元をおさえた。ケビンは沈んだ表情をしている。


「……ごめん」


 彼はナオコを見ようともしなかった。


「中村さ、山田となんかあっただろ」


 なにも言えなかったが、それは彼にとって肯定と捉えるには十分な態度だった。


「おまえが山田をかばう気持ちも分からなくねえよ。由紀恵も言ってたが、あいつはおまえにだけちょっとばかし優しい。相棒だからか知らねえが〈鏡面〉に閉じこめられたときも助けてたしな。でも」


 ケビンは「はあ」と息をついた。それは獣が苛だちを抑えこむのに似ていた。


「俺はあの戦いで起こったことを、なかったことにはできねえ。山田はなにかを隠している」


 山田がブージャムと呼ばれていたことは、たしかに引っかかる。ただ混乱する日々のなかで、それについて考えるのはあまりにもつらかった。

 彼が異常種と戦っていることやが関係ないとは言いきれないが、ナオコはほんのわずかでも指先が届いた彼の心を疑いたくはなかった。

 由紀恵の死は事故だ。悲しい出来事だが、だれかに責任のある出来事ではない。

 しかしそれを面と向かってケビンに言うだけの勇気はなかった。彼の悲しみは、自分にとって想像もつかないほどだ。山田を憎む気持ちも理解できる。


 ナオコはぎゅっとこぶしを握りしめ「仮に山田さんがなにかを隠していたとして、それでケビンはどうするつもりなの?」と質問した。


「それがあの戦いにかかわる秘密だったなら、許さない」ケビンは真顔だった。


「由紀恵が死んだ責任があいつにあるとは言わねえ。でもな〈芋虫〉(おれたち)は命を張っているんだ。こそこそ隠しごとされて死ぬんじゃたまらねえだろう?」


 彼は自分自身に言い聞かせているように話した。静かな口調だったが、目には悲惨な色が宿っている。

 ナオコは彼の悲しみに身がつまされるような思いになった。もし山田との取引を破り、ケビンに本当のことを話したらなにかが変わるのだろうか。真実があきらかになるのだろうか。由紀恵が戻ってくるのだろうか。

 自分の知っていることを伝えた場合、ケビンは山田を追求するだろう。本社が〈芋虫〉に隠しごとをしていたという事実は彼にとって重大な事柄だ。

 そして取引を破るということは、山田の信頼を投げ捨てることを意味していた。彼は誰からも吸血をしなくなる。死と隣りあわせになりながらも素知らぬ顔をするあの日々に戻るのだ。


「ごめん、ケビン」


 ナオコはぽつりとつぶやいた。


「本当にごめん。でも」


「言えないんだな?」それは断罪を問う言葉だった。「俺に話す気はないんだな」


 ナオコは口を閉ざした。それが答えだった。


「……わたしも調べてみるから」と、すがるような気持ちで切りだす。「あの〈虚像〉が話していたことについて、いろいろ探ってみる。うそに聞こえるかもしれないけれど」


「ああ、そう聞こえる」


 ケビンは固い声で告げた。ナオコは心に重い石を投げられたような気持ちになった。


「だが」と彼はつづける。


「中村が軽々しく秘密を破るような人間じゃねえことも、知ってる」


 ナオコは目をふせた。泣きそうだった。いま自分たちは、おたがいの傷の深さを知っている。だからこそ気安いなぐさめなんてできなかった。

 彼は本をリュックサックのなかに戻すと、立ちあがった。部屋から出ていこうとして、ふと立ちどまる。


「……ひとつだけ、忠告しとくぜ」彼は振りかえって、そう言った。

「由紀恵がマルコさんを嫌ってたことは知ってるよな」


 ナオコは淡々とした彼の語り口に、なんだか嫌な予感がした。


「マルコさんが精神分離機を埋めているって話、知ってたか?」


「知らない……でもマルコさんは、開発者だから」それほど驚くような話でもないと暗に示す。


「精神分離機を導入したときに、あの人がデモンストレーションをやったそうなんだが」


 ケビンは部屋の片隅を見つめていた。照明が当たらない部分は、より暗い。ナオコは彼が自分の見えていないものが見えているのではないかと思った。それくらい彼の目は見開かれていた。


「大量の鏡が出てきたんだってよ。マルコさんの、精神分離機から」


 ナオコには言葉の意味が分からなかった。「かがみ?」


「ああ、鏡だそうだ。マルコさんいわく、自分にとって()()()()()()()()は『鏡の国』にいる〈虚像〉だかららしいが」


「鏡が最も攻撃的なもの……」


 マルコの言い分は理解できる。だが由紀恵が危惧したのは、そんなことなのだろうか。彼女は言っていた。『マルコが精神分離機を発明したことが怖いのだ』と。

 彼女は、マルコが鏡を最も攻撃的であると認識していることを不安視していたのではないだろうか。


 マルコの顔が頭をよぎる。紳士然としたほほえみ、策士のようなにやつき、内気な青年の慌てる顔……泣きそうな笑顔、そのすべてが彼だった。

 ナオコは逡巡(しゅんじゅん)してから、ゆっくりと口をひらいた。


「……わたしは、そのことに関しては由紀恵さんに賛成できない。だからこそマルコさんにちゃんと聞いてみるよ。ブージャムのこと」


 ケビンから冷ややかな視線がささった。「そうかよ」と諦めの混じったつぶやきが耳にささる。


「そんなことで全てがあきらかになるなら……由紀恵も死なずにすんだかもな」


 ぱたん、と扉がしまった。


 ナオコはすぐに部屋から出る気になれなかった。ベンチプレスにすわる。胸のあたりが苦しい。

 はあっと息をついて天井を見あげる。ほおに冷たいものが流れた。シャツの袖でぬぐって、目の前をにらみつける。携帯をとりだして、メールを送った。こんな時間に連絡をして迷惑かもしれないが、それは後で謝ればすむことだ。


 数分後、メールが返ってきた。あいかわらず返信が早い。

『了解。執務室に来て マルコ』と見るや否や立ちあがり、部屋を出る。吐き気がするくらい、息苦しかった。唇に歯を食いこませて、エレベーターに乗った。

 泣きたくはなかった。自分に泣くことは許されていなかった。

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