ディア
翌日、ナオコが特殊警備部のオフィスに出勤すると、なんともいえない視線がふりそそいだ。向かいの席にすわった一人が「昨日のこと聞いたよ」と声をかけてきた。
「正直、信じられないよ。山田のやつ、記憶処理をケビンにやらせたんだろ?」
彼らは嫌悪感をにじませて、ささやいた。
「アイツが血も涙もない男だって知ってはいたけどな……さすがに今回のは」
「中村、なんかあったらマルコさんに言うんだぞ」
「今週中には帰国するそうだから」
次々に投げかけられる同情の言葉に、ナオコは沈黙を守った。そして「わたしは山田さんの相棒ですから」とだけ答える。
彼らは顔を見あわせた。
「たしかにひどい仕打ちだと思います。でも、山田さんも考えてそうしたと思うので……」
「考えってなんだ? やつの行動は追いうちをかけただけだろ」
彼らの怒りはケビンを思ってのことだ。そう分かっていても、いたたまれなくなる。
山田が彼自身の犠牲を隠していると打ち明けてしまいたかった。だが、それが昨日の行動の免罪符となるだろうか。
頭上を冷ややかな言葉が飛びかっている。耐えきれなくなったナオコは、オフィスを出て彼の部屋にむかった。アメリカから帰ってきて、まだ一度も吸血をされていないことも不安だった。
「山田さん」と呼びかけると、扉があいた。
「……今日は金曜日だが」
そう言いながらも、部屋に通してくれた。ナオコは山田を仰ぎみて顔をしかめた。
「そこ、すわってください」と無理やり椅子にすわらせる。特に抵抗しないので、よけいに心配になる。
昨日ケビンにたいして見せた冷酷な表情は鳴りを潜め、疲れが目元に影を落としている。口元にある痣は、昨日ケビンに殴られた痕だ。
「ちゃんと眠っていますか?」
「もちろん」との答えが、すでにうわの空だ。
「うそでしょ」眉をひそめて、腕をまくる。
アメリカから帰ってきた山田は、これまで以上に頑なになった。昨日の行動が代表的だ。みんなが閉口する気持ちも理解できるし、冷徹そのものと捉えられても仕方がないかもしれない。
それでも自分には、彼が心からそうしているとは思えなかった。
由紀恵の死に傷ついているのは一緒のはずだ。あのとき地面から出てきた3匹目の蛇を仕留めたのは、彼だった。
デスクの引き出しをカッターをとりだす。
「すごく疲れた顔していますよ」
ぎこちない手つきで肘の裏に刃を当てる。手をおさえられた。
「俺がやる。見ていられない」と、カッターを奪われかけたので、手をあげて阻止する。
「それは鏡で自分の顔を見てから言ってください。そんなヘロヘロの顔の人に切られたくないです」
いつもなら数倍の皮肉が返ってきそうな言葉だったが、彼は黙ってしまった。目頭に指をあてて「そうだな」と独りごつ。
「悪い、君に迷惑をかけるつもりではなかった」
「……迷惑だなんて思ってないです」
カッターを押しあてて、傷口をさしだす。しかし彼は口をつけず「なにか気に障ることを言われていないか?」と質問してきた。
「オフィスに居場所がないから、ここに来たんだろう」
体調が悪くてもあいかわらず勘が冴えている。なんと答えるべきだろうか。
「たしかに、気に障ることはたくさん言われました」
血が垂れそうになったので、腕を持ちあげる。「飲んでください」とうながすと、しぶしぶ口をつけられた。
「……みんながなにも知らなのに、いろいろと話すからです」
口が離れた。彼はすかさず傷の消毒をはじめた。
「昨日、ケビンに記憶処理を任せたのだって、なにか理由があってのことなんじゃないですか?」
自分の声に期待がこもるのがわかった。山田の表情がくもったのを見て、後悔する。彼がこういう類の脂ぎった善意を好まないと知っているのに、つい言ってしまった。
「もしそうだとしたら、相浦は納得すると思うか?」
想像通り、その声は固かった。
「彼は新藤の死を乗り越えなければならない、だからあえて記憶処理を任せたんだと説明すれば、昨日の行いは許されるのか? 君はどう思う」
問いかけながらも、彼はナオコの言葉になにも期待していないようだった。
「わたしは」
ひしひしと伝わってくるのは、悲しみに浸る甘えを拒否する、さらなる悲嘆だった。
口内がかわく。言いたいことはある。あなたが傷つくところを見たくないだけだ、と。
だがそんな口先だけの言葉は、彼に届かない。悲しみを誰もが感じていても、その表し方は異なる。
彼は慰めの言葉もいたわりも必要としていない。それがたまらなく悲しかった。
「無理しないでください」
そう言うのが精いっぱいだった。
自分の指先をきゅっと握る。冷えている。
「相棒として、お願いです」
「……君に心配されないように、体調管理はしっかりするさ」
彼はほんのわずかに口元をゆるめた。
「ひどい顔をしているのはお互いさまだ。彼氏にでも慰めてもらえ」
「言われなくても、そうしますよ」
気まずく思いながら返事をする。
「山田さんも、だれかに癒してもらってくださいよ……今回は許します」
「なぜ君の許しが必要なのか知らんが、それこそ言われなくとも」
皮肉っぽい返しに、ようやく少し安心できた。弱っている彼なんて、やっぱり見たくないのだ。