表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れる男の夢
66/173

重い出自

 もうちっとも暑くない。

 自転車をこぎながら、ナオコはぼんやりと思った。このあいだまで太陽がうるさかったが、今は元気のない光が降りそそいでいる。

 紅葉も秋風もなにもないけれど、季節は秋だ。


 HRAにつくと、警備員がいつものように立っていた。

「おはようございます」と敬礼をされたので挨拶をかえすが、それ以上は話しかけられなかった。

 いま特殊警備部と他の部署のあいだには、奇妙な壁ができている。同情と恐怖が入り混じった感情だ。


 エントランスホールをくぐり、トレーニングルームに向かう。中にはだれもいない。

 静かなホールの入口で立ちすくむ。からっぽだ。

 彼女はひとつためいきをついて、訓練を始めた。対鳥類にしてみるが全くもって身が入っていないために、すぐやられてしまった。


 こんなんじゃだめだ。こんなことでは、由紀恵さんに面目がたたない。


 涙腺がゆるむのを感じる。彼女は湧きあがってきたものを抑えた。そんなことは自分たちの誰にも許されていない行為だ。

 

 由紀恵が亡くなって、二週間以上がたとうとしていた。

 現場に残されたのは血の跡だけだった。〈虚像〉に頭から食われたせいだ。彼女の遺体は、いまだに見つかっていない。

 ナオコとケビンは保護され、山田が現場の状況を報告した。ケビンにいたっては半狂乱であったし、ナオコは呆然としていた。

 由紀恵がいなくなったなんて信じられなかった。何日も普段通りの生活を送ろうとした。


 それでも、彼女は帰ってこなかった。


 涙を流すことはできなかった。

 心のなかにじわりと影を落としているのは、彼女の死なのか、それともあの時起こった出来事なのか、ナオコには判別つかなかった。

 考えなければいけないことは山積みなのに、時計の針は進まないままだ。


 それでも先日山田が帰国して、ようやく現実感が戻ってきた。

 マルコのアメリカ出張は急遽(きゅうきょ)取りやめになり、代理として山田が発った。ケビンは猛反対していたが、マルコの票も持っての代理出席だったため止められなかった。

 由紀恵が亡くなった翌日にいなくなった彼に、他の〈芋虫〉たちが抱いた感情は想像に難くなかった。


 もうなにも分からない。ナオコはクラブのきらめく銀色をながめて、静かに思った。

 あのときから、頭のなかに音のない台風がおこっているようだ。考えがまとまらない。

 このままではいけないとは思っているのに、一歩踏み出すことができない。なにもかもが停止している。


 廊下を駆けていく音が聞こえて、ナオコはふりかえった。


「おい、中村!」と〈芋虫〉の一人がトレーニングルームに顔を出した。


「どうしたんですか?」


「ちょっとこい!」


 クラブを置いて外に出る。見るとエレベーターの前に人がたむろっている。彼らはナオコをみとめた途端に中に押しこめた。


「エントランスでケビンが山田につっかかっててな」と一人が説明する。

「俺たちじゃ無理だ。止めてくれ」


「相棒だろ? このままじゃ殴りあいになりそうなんだ。たのむ」


 話す暇すら与えられずに、エレベーターの扉がしめられた。

 相棒だからといって止められる気はしないが、行くしかない。なによりケビンが心配だった。由紀恵が亡くなって一番辛い思いをしているのは彼だ。


「……から、話せっつってんだよ!」


 怒鳴り声がきこえた。

 扉がひらく。目に飛びこんできたのは、ケビンが山田の胸倉をつかむ姿だった。

 ナオコは泡を食って「ケビン!」と彼の腕に手をかけた。


「ちょ、おちついてよ。ここエントランスだよ!?」


 ケビンは彼女には目もくれない。「黙ってんじゃねえよ」とこぶしに力をこめ、山田をにらんでいる。


 ケビンはあの戦闘で肩にケガを負っていたが、それをものともしていない様子だった。

 彼のほうが一回り大きいせいで、山田は自然とつま先立ちになっている。その膝が浮いた。腕を支点にして、ケビンのわきばらに膝を打ちこむ。ひるんだ腕を抑えつけて、勢いよくひねった。ケビンが悲鳴をあげる。


「図体だけ大きかろうが、なんの役にもたたない。相浦、君も学ばないな」


「や、山田さん! ダメですってば!」


 形勢逆転した山田にとりすがる。ケビンは痛みのあまり涙目になって膝をついていた。


「こんなとこで喧嘩して、なんになるんですか! ちゃんと話しあって……」


「話しあいなんざ、こいつにする気は一切ねえよ!」


 ケビンが憎々し気に吐いた。


「なんも教える気も、話す気もないんだからな! 秘密主義でかっこつけてんのか知らねえが、話さないかぎりは、てめえを特殊警備部の一員だとは認めねえ」


 山田がさらに力を入れたので、ケビンが「ぎゃあっ」と叫んだ。


「だめですってば!」


 彼の手をとって、止めさせようとした。山田はこちらをうとましげに見たが、しぶしぶ手を離してくれた。

 これでようやく喧嘩が終わる。胸をなでおろしたところで、鼻先に風を感じた。

 シャツのえりを引かれて、山田のほうへ倒れこむ。彼は背中を支えてくれたが、すぐに手を離さざるをえなかった。がつん、と痛そうな音がひびく。


 支えを失って尻もちをついた。あっけにとられて彼らを見あげる。

 山田が口元をぬぐった。力いっぱい殴られたのか、血がにじんでいる。


「中村、わりぃ」と、ちっとも悪びれていない顔でケビンがつぶやいた。手をぶらぶらと振り、冷たい目で山田をみている。

 自分を殴ろうとすることで山田の隙を作ったのだ。

 ぞっとした。ケビンは普段、こんなことをする人間ではないのに。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ