重い出自
もうちっとも暑くない。
自転車をこぎながら、ナオコはぼんやりと思った。このあいだまで太陽がうるさかったが、今は元気のない光が降りそそいでいる。
紅葉も秋風もなにもないけれど、季節は秋だ。
HRAにつくと、警備員がいつものように立っていた。
「おはようございます」と敬礼をされたので挨拶をかえすが、それ以上は話しかけられなかった。
いま特殊警備部と他の部署のあいだには、奇妙な壁ができている。同情と恐怖が入り混じった感情だ。
エントランスホールをくぐり、トレーニングルームに向かう。中にはだれもいない。
静かなホールの入口で立ちすくむ。からっぽだ。
彼女はひとつためいきをついて、訓練を始めた。対鳥類にしてみるが全くもって身が入っていないために、すぐやられてしまった。
こんなんじゃだめだ。こんなことでは、由紀恵さんに面目がたたない。
涙腺がゆるむのを感じる。彼女は湧きあがってきたものを抑えた。そんなことは自分たちの誰にも許されていない行為だ。
由紀恵が亡くなって、二週間以上がたとうとしていた。
現場に残されたのは血の跡だけだった。〈虚像〉に頭から食われたせいだ。彼女の遺体は、いまだに見つかっていない。
ナオコとケビンは保護され、山田が現場の状況を報告した。ケビンにいたっては半狂乱であったし、ナオコは呆然としていた。
由紀恵がいなくなったなんて信じられなかった。何日も普段通りの生活を送ろうとした。
それでも、彼女は帰ってこなかった。
涙を流すことはできなかった。
心のなかにじわりと影を落としているのは、彼女の死なのか、それともあの時起こった出来事なのか、ナオコには判別つかなかった。
考えなければいけないことは山積みなのに、時計の針は進まないままだ。
それでも先日山田が帰国して、ようやく現実感が戻ってきた。
マルコのアメリカ出張は急遽取りやめになり、代理として山田が発った。ケビンは猛反対していたが、マルコの票も持っての代理出席だったため止められなかった。
由紀恵が亡くなった翌日にいなくなった彼に、他の〈芋虫〉たちが抱いた感情は想像に難くなかった。
もうなにも分からない。ナオコはクラブのきらめく銀色をながめて、静かに思った。
あのときから、頭のなかに音のない台風がおこっているようだ。考えがまとまらない。
このままではいけないとは思っているのに、一歩踏み出すことができない。なにもかもが停止している。
廊下を駆けていく音が聞こえて、ナオコはふりかえった。
「おい、中村!」と〈芋虫〉の一人がトレーニングルームに顔を出した。
「どうしたんですか?」
「ちょっとこい!」
クラブを置いて外に出る。見るとエレベーターの前に人がたむろっている。彼らはナオコをみとめた途端に中に押しこめた。
「エントランスでケビンが山田につっかかっててな」と一人が説明する。
「俺たちじゃ無理だ。止めてくれ」
「相棒だろ? このままじゃ殴りあいになりそうなんだ。たのむ」
話す暇すら与えられずに、エレベーターの扉がしめられた。
相棒だからといって止められる気はしないが、行くしかない。なによりケビンが心配だった。由紀恵が亡くなって一番辛い思いをしているのは彼だ。
「……から、話せっつってんだよ!」
怒鳴り声がきこえた。
扉がひらく。目に飛びこんできたのは、ケビンが山田の胸倉をつかむ姿だった。
ナオコは泡を食って「ケビン!」と彼の腕に手をかけた。
「ちょ、おちついてよ。ここエントランスだよ!?」
ケビンは彼女には目もくれない。「黙ってんじゃねえよ」とこぶしに力をこめ、山田をにらんでいる。
ケビンはあの戦闘で肩にケガを負っていたが、それをものともしていない様子だった。
彼のほうが一回り大きいせいで、山田は自然とつま先立ちになっている。その膝が浮いた。腕を支点にして、ケビンのわきばらに膝を打ちこむ。ひるんだ腕を抑えつけて、勢いよくひねった。ケビンが悲鳴をあげる。
「図体だけ大きかろうが、なんの役にもたたない。相浦、君も学ばないな」
「や、山田さん! ダメですってば!」
形勢逆転した山田にとりすがる。ケビンは痛みのあまり涙目になって膝をついていた。
「こんなとこで喧嘩して、なんになるんですか! ちゃんと話しあって……」
「話しあいなんざ、こいつにする気は一切ねえよ!」
ケビンが憎々し気に吐いた。
「なんも教える気も、話す気もないんだからな! 秘密主義でかっこつけてんのか知らねえが、話さないかぎりは、てめえを特殊警備部の一員だとは認めねえ」
山田がさらに力を入れたので、ケビンが「ぎゃあっ」と叫んだ。
「だめですってば!」
彼の手をとって、止めさせようとした。山田はこちらをうとましげに見たが、しぶしぶ手を離してくれた。
これでようやく喧嘩が終わる。胸をなでおろしたところで、鼻先に風を感じた。
シャツのえりを引かれて、山田のほうへ倒れこむ。彼は背中を支えてくれたが、すぐに手を離さざるをえなかった。がつん、と痛そうな音がひびく。
支えを失って尻もちをついた。あっけにとられて彼らを見あげる。
山田が口元をぬぐった。力いっぱい殴られたのか、血がにじんでいる。
「中村、わりぃ」と、ちっとも悪びれていない顔でケビンがつぶやいた。手をぶらぶらと振り、冷たい目で山田をみている。
自分を殴ろうとすることで山田の隙を作ったのだ。
ぞっとした。ケビンは普段、こんなことをする人間ではないのに。