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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れる男の夢
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終わりの始まり

「……遅くなりました」


 重厚な黒いとびらを開けて、マルコは部屋のなかに入った。久しぶりに来た彼の私室は、たくさんの関係者で埋まっていた。

 見慣れた顔ばかりだ。支社長の面々に各部署のトップたち。HRAの頭脳が一挙に集まっている。

 彼らは痛まし気な顔を演じながらも、マルコの一挙一動から目を離さなかった。監視するような視線は、昔から慣れしたんだものだ。

 アルフレッドに拾われて、その寵愛を一挙にうけた自分は、彼らからしたら目の上のたんこぶだったに違いない。


「マルコ」とかすれた声がした。ベッドに横たわっている彼の顔には、シーツは引かれていなかった。


「ここに」と、彼の手をとる。ひゅうひゅうと細い息が聞こえて、しわがれた手を握りしめた。


「よかった……よかった……君に会いたかった……」


「二人にしてくれ……」


 彼の言葉に、全員が押しだまった。お互いに顔を見あわせて、冷ややかな視線をマルコに浴びせながら去っていく。

 マルコはひざを折り、彼の言葉を聞きもらさないように顔を近づけた。


「ああ……いろいろ、大変だったな……」


「……そうですね」


 この1週間、HRA日本支社は激震の最中にいた。新藤由紀恵が死んだことは特殊警備部に不安の種を落とし、徐々に他の部署へも広がっていった。

 そんなときに会社を離れるわけにはいかず、山田を先に送りこんだのだが、ようやくアメリカに来ることができた。


「大丈夫、そうなのか?」


「はい。まだみんな動揺していますが……でも、強い人たちなので」


 人の死が身近な者ばかりが集まった会社だ。彼らは悲しんでいるが、混乱はしなかった。

 新藤由紀恵の相棒である相浦ケビンや、彼女の死の場面に居合わせた中村ナオコはその限りではないが、他の〈芋虫〉たちは悲しみを隠すだけの平常心を取り戻しつつあるようだった。


 彼はぼんやりと天上を見つめていた。マルコは口を閉ざした。いまは自分の話よりも、彼の話を聞きたかった。あとどれくらい、こうして会話できるか分からないのだ。


「わたしは、間違えたのだなァ」


 それは唐突な言葉だった。


「おおいなる間違いだ……なあ、マルコよ。わたしは」


 彼はひゅうっと息を吸いこんだ。


「わたしは……救いたかったんだ」


 夢心地の台詞だった。その目のなかに濁った霧がかかっていた。

 彼の見ているものは、自分には見えない。それでも今際のときにそんな悲しい言葉を言ってほしくなくて「ぼくはあなたに救われました」と言った。

 彼はショックを受けたようだった。白濁した目を開き、首を横にふる。


「ちがう、違うんだ……わたしは、こんなことをするつもりではなかった……」


「大丈夫です」


 震える手のひらを握りなおした。


「心配しなくても、あなたは間違ってなんていない。ぼくが証明します」


 マルコは強い口調でそう言ったが、断定は彼の深い悲しみに飲みこまれて届かなかった

 ただ彼は、希望も絶望もどこかへ置いてきてしまったように「間違ったんだ」とくりかえした。


 しばらく彼はぼんやりと意識のすきまをさまよっていたが、ふいに口をひらいた。


「ああ、マルコ……わたしは君を育てられて、とても楽しかった……」


 しわだらけの口元が、弧をえがく。


「小さなころ……君に本を読んだ……そうだ」


「そうですね。あなたはたくさんのことを、ぼくに教えてくれた」


 アルフレッドは必ずしも普通の親のような愛情を注がなかったが、それでも自分のためになることをしてくれた。スラム街で息絶えるところだった自分を救っただけではなく、勉強をさせて、生きる意味を与えてくれた。

 その命が消えようとしている。マルコは受け入れていたはずの恐怖が足元にすがりつくのを感じた。


「……君は、好奇心旺盛な生徒だったなァ」


 彼はなつかしむように話した。


「知りたがりで……分かりたがりで……」


「あなたに似たんですよ」


 マルコはほほえんだ。泣きそうだったが、それを悟られたくはなかった。

 彼は何度もうなずいた。


「そうだな……君は若いころのわたしに、そっくりになった」


首が横にぱたんと倒れて、にごった瞳がマルコをとらえた。


「マルコ……」


「はい」


 彼の力が強くなった。

 マルコは幼いころに見た背中を思いだした。広く大きくなにものも顧みない彼は、それでも自分の手を引いてくれた。


「一番下の引き出しが二重底になっている」


 マルコはハッとして、耳を彼の口元によせた。


「1952」


「1952」と復唱すると、彼は満足気な顔をした。


 最後の一息で、彼は笑った。透明な笑顔だった。



「きみを、まちがいなくあいしていた」



 手から力がぬけた。マルコは滑り落ちそうになったそれを慌ててつかんだ。だらんとなった指先が、何度もすべって、シーツの上に落ちそうになる。ぽたぽた、と手の甲に水滴が落ちた。取り返しのつかないものが、なくなってしまった。


「ぼくも」


 言葉のつづきは言えなかった。彼の手をそっとベッドの上に置き、立ちあがる。外の彼らには知られたくないことに違いない。

 マルコは部屋の片隅にあるデスクに近寄り、一番下の引きだしをあけた。一見すると気づかないが、よくよく触ると出っ張りがある。中の書類を取りだしてみると、右奥が南京錠で固定されている。

 彼らしい隠し方だと思って、涙がこみあげた。このご時世に古めかしい隠し方をしたのは、科学を愛し、愛されたからこそだ。彼は便利な道具の弱点を、よく知っていた。


「科学は裏切らないが、人は裏切る……それならば裏切れないように。ですよね」


 マルコは物言わない彼に話しかけた。1952と数字を合わせる。かちりという音とともに、底にすきまが空いた。

 爪をひっかけて開くと、そこには古びた革表紙の本が入っていた。そっと手にとり、傷んだ表紙をなでてみた。どうやら日記のようだ。

 表紙をめくり、読みはじめる。






 1952年12月25日 


 わたしは、彼の歌を聞いた。




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