Love and fall
ナオコは戸惑いながらも、山田のほうを向いた。
「ケガ、大丈夫ですか……? 手当、まだですよね」
山田は虚を突かれたような表情をした。たしかに腕から血がにじんでいる。
「君に心配される筋合いはない」
ぶっきらぼうに答える彼に「でも」とナオコは食い下がった。
「折れてましたよ、あの音、絶対!」
「折れていない」
「うそですよ、早く手当しないと」
「やかましい、黙れ」
彼らの言い争いを見ていると、マルコは不思議な気持ちになった。胃の下にえんとつが出来たような気分だ。黒い煙がもくもくと沸きたって、口をひらく。
「中村さん、だっけ? いま就職活動中なの?」
彼女はきょとんとしてから「そうです」と言った。
「ふーん」
「おい、なにを考えているんだ」と山田が焦燥をうかべる。察しのいい男だ。
「いや、分離機なしに武器を取り出しちゃうってことはさ、〈芋虫〉にすごい適正があるわけじゃない。それなら、うちに就職すればいいのにって思って」
二人とも絶句したのをみて、マルコはにこにこした。
「うち、結構待遇いいよ」
「え、でも……いいんですか?」
「いいわけあるか! 正気か、君は!」
山田が噛みついてきた。ここまで彼が動揺するのは珍しい。
「彼女は一般人だぞ! 今回のことはただの事故だ、こんなことで〈芋虫〉にしてどうするつもりだ!」
「どうするつもりって、理に適っていると思うけどな。特殊警備部は慢性的な人手不足、中村さんは就職活動中、ちょうど良いことこの上ない」
「なにがちょうどいいんだ、第一HRAは新入社員なんぞとらないだろう!」
「これを機会に門戸を開く……っていうのは冗談だけど。でも、いいじゃない。山田くんはなにをそんなに嫌がっているんだい?」
やましいことでもあるのかな、と小首をかしげて見せる。たいていの人間はこれで口を閉じてくれるのだが、山田は断固として拒否の姿勢を崩さなかった。
「反対する。足手まといは不要だ」
「あのっ」
ナオコが横から口をはさんできた。
「面接とかあるんですか? 資格とか、SPIとか」
マルコは目をまるくしたあと、ほほえんだ。
「そんなのないよ。普通の会社とは、ちょっと違うから……それに、面接にはもう合格してる」
「え?」
「ぼくが経営者だからね」
両手をひろげて「君がやる気なら、ぼくは大歓迎」と満面の笑みをうかべてみせる。
彼女は年若いマルコが経営者だと名乗ったことに驚いた様子だったが、不安に思いはしなかったようだ。むしろ若いベンチャー企業の社長でも見るような、尊敬のまなざしを感じる。
素直な子だ。好意的に思うと同時に心配になった。こんなにすんなり信じてしまって、これでは就職活動が上手くいくわけがない。
「ダメだ」と山田が彼女の肩をつかんだ。
「絶対に後悔するぞ。君は普通の人間だ……こんなこと、さっさと忘れるべきだ」
むっとして彼の手を払い「後悔はぼくがさせないよ」と、代わりに自分の手をおく。
「中村くん、うちに来なよ。大変な仕事だけど、君には才能がある」
ナオコの目が大きく見開かれた。彼女の自尊心に触れたことを確信して、内心でほくそ笑む。もっと、この子に心を開かせたい。この子の中を見てみたい。
さらなる追撃をしようと口をひらくが、山田が間に入って「ふざけるな」と言ったので黙った。彼はマルコが本気で勧誘していると察したのか、凄みのある目つきをしている。
「〈芋虫〉は、通常常駐警備部として訓練を積み、適正のある人間が昇格する手はずだ。君の独断で決められると、俺としても黙って見過ごすことはできない」
もっともらしいことを言っている彼に、肩をすくめてみせる。
普段彼がお目付け役としての役割を誇示することはほぼないが、今回ばかりはその権力をふるうつもりらしかった。
もともとHRAの経営権はマルコだけのものではなかった。自分はあくまで研究者だ。実質的な運営に関しては山田が権力を持つはずだった。
それを自分が奪った。
アルフレッドに「経営も自分がやる」と直談判をすると、彼はあっさり承知し、山田はただのお目付け役として日本に送られることになった。
マルコにとっては幸運なことに、彼がそれを恨むそぶりはちっともなかった。もともと権力に興味がないのだろう。日本に来てからは気ままにしているようだったし、あまり関わってこなかった。
そのはずなのに、忘れかけていた立場を持ち出してでも、彼女をこの会社に入れたくないらしい。
仕事へのプライドがそうさせるのだろうか……。
いや、違うな。マルコはにんまりと笑った。
「そうだね。じゃあまずは常駐警備部として入りなよ。それで機をみて特殊警備部に来ればいい」
「そういうことを言っているわけじゃない、関係のない一般人をほいほい入れられると……」
「あーもう、山田くんはうるさいなあ……それなら本社に連絡してもらっても構わないよ」
山田は押し黙った。彼としても本気で連絡するつもりはないのだろう。
HRAは一般的には極秘機関と呼ばれる部類だが、その秘密にたいして厳格な緘口令が敷かれているわけではない。
妄言と間違われるのが関の山なうえに、働いている人間は身よりがなかったりして表舞台に立てない者ばかりだ。どこかに話を出しても彼らにメリットはない。
マルコは湧き上がってくる興奮に理性が侵食されていくのを感じていた。
自分は無宗教だ。こんなメルヘンチックな研究をしていても、魂なんて信じていない。精神と肉体しか人間には存在せず、肉体はタンパク質で精神はただの電機信号だ……。
そう思っていたのに、いまたしかに「心」を感じている。
彼女が欲しい、どうしても。
「彼女はこの会社を変えるよ、間違いなく。だからぼくは中村くんに来てほしい」
大げさにすぎる言葉だったが、自分のなかの何ものかが、そう叫んでいた。彼女を絶対に逃してはならない。
山田はマルコの顔をみて、口を閉ざした。
奥にある秘匿の存在を感じて、マルコはそれを見ないふりした。山田が自分に何事かを隠していることは分かっている。
それを知らんぷりしてあげるんだから、君だって黙っているべきなんだ。
「……絶対に来るなよ」
山田は矛先をナオコに変えた。彼女はうなずきも否定もしない。
「来るな」
「う、いや……すぐには決められな」
指をいじくりまわして言う彼女に「決めるとか決めないとかじゃない、来るなと言っているんだ。他の就職先を探せ」と厳しく告げる。
「もし、君の姿を次にみたら、承知しない」
彼は視線をナオコから逸らした。
思いつめたような顔をしているじゃないか、と面白くなった。ああ、彼もこういう表情をするのだ。この子はそういう子なのだろう。人の心に傷をつけていく。
「これ、名刺」とナオコに手渡す。
「その気になったら電話して? 待っているから」
「あ、はい。ありがとうございます」
彼女は丁寧に受け取り、頭を下げた。本当に普通の女の子だ。
平凡で普通でなんの特徴もなくて、なのに胸が燃えるように熱い。
ふと、マルコは気づいた。
これが恋なんだ。