Fall in love
それは自分にとって、生まれて初めての恋だった。
そうマルコは回想する。
「中村ナオコです」
彼女は頭が地面につきそうなほど深々と礼をして、おびえた顔をあげた。就職活動で大変な思いをしたのか、小柄な体がさらに小さくなっていた。
「マルコ・ジェンキンス」と片手をさしだす。
彼女はおろおろしながら、マルコの両手をにぎった。なんて小さくて細いのだろう。人差し指、中指、薬指、小指、親指……魚の腹みたいにすべらかな肌に罪悪感をおぼえて、すぐに離す。
「ケガしていない?」
彼女は不安げにうなずいた。それも当然のことだった。彼女は神泉駅で〈鏡面〉の発生に巻きこまれ、目の前で〈虚像〉との戦闘を見たのだ。一般人が〈鏡面〉に入ってしまう事例は初めてだった。
管理システムの異常か、それとも彼がなにかを仕掛けたのか。マルコは渋い顔をしている青年を見た。
山田は駅前のガードレールに腰かけ、タバコをかじっていた。見るからに苛立っており、ナオコをにらんでいる。たいする彼女は腹を空かせたライオンのそばにいるような表情だ。
「なんでこんなことになったんだい?」
「知るか」
彼の端的な答えを不審に思った。山田は饒舌なタイプで、不満なことがあればあるほど多弁になる。アメリカに居たころこそ、ほとんど喋らないと思っていたが、日本との相性が良かったのだろう。こちらに来てからよく話すようになった。
それがこのだんまり加減か。マルコは悩むようなそぶりで山田を観察した。
彼はナオコから視線をそらさず、ひたすらタバコを消費している。
イレギュラーに対するショックか、苛立ちか。それとも他のなにかか。結論が出るはずはない。
マルコは山田のことはひとまず置いておき、ナオコに向きなおった。
「一応聞いておきたいんだけど、〈鏡面〉に入ったとき、君はどういう状況だったの?」
ナオコは視線を泳がせながら「きょうめんって、あれですよね? さっきまでいた……」とたずねた。
「そうそう、そこにどうして入ったの?」
「えーっと」
彼女は気まずそうに山田を見た。
「そこの馬鹿は線路に飛びこもうとしたんだ」と、彼が吐き捨てる。
「ち、ちがいます! 線路に落ちたのは事実ですけれど……」
ナオコは顔を赤らめて下を向いてしまった。
「急に寒気がして。たぶん貧血だと思うんですけれど、それで線路に落ちかけて……そこを、その、山田さんが助けてくれて」
「へえ」
感心したように山田をみると、うんざりしきりといった顔をしている。
「じゃあ山田くんとの接触が原因とみるのが、とりあえず妥当かな」
「すみません。体調管理ができていなくて」
「いやいや、無事でよかったよ。たまには山田くんも人道に沿ったことをするんだと分かっただけでも、ぼくはうれしい」
管理システムの見直しが必要だろうな。マルコは内心で思いながら、一番重要なことに話をうつした。
「じゃあもう一つ聞かせてね。君、特殊な精神訓練とか、そういうのを受けたことはある?」
「はい?」
ナオコは目を丸くした。
「禅とか瞑想とか、なんかそういうの」
「いや、ないです……」
マルコは思わず苦笑した。嘘をついているようには見えない。見えないが、それだと困る。
「それも俺の影響なんじゃないか」
山田がつぶやきながら立ち上がった。ナオコがびくつく。
「精神分離機の効力に関しては、不明な部分も多い……そうだろう?」
「開発者としては、それにうなずきたくはないけど」
マルコは肩をすくめる。
「でも〈鏡面〉の不安定なエネルギー環境のなかでは、ありえないこともないのかなあ」
2014年6月5日。特殊警備部5課3班、山田志保の担当する〈鏡面〉に女性が侵入してしまったことは保全部中で大騒ぎになり、すぐにマルコの耳に届いた。
管理システムを通じて様子をうかがうと、たしかに山田以外に人体が観測されている。
どうしたもんかと頭を悩ましていると、衝撃的な出来事が起こった。
〈虚像〉は成熟しきった猫として現れ、山田は女性を庇いながら戦闘をした結果、負傷した。そんな彼を女性は助けようとした。
信じられないことが起こった。彼女の手に、突如としてゴルフクラブが生成されたのだ。結果として、彼女が隙をつくり、機を逃さなかった山田がとどめをさした。
精神分離機が埋めこまれていない一般人が、武器を生成したのだ。それはつまり、特殊な精神操作術をもっていることに他ならない。
そう考えていたのだが、実際に対面してみると彼女は見るからに、そういうことからほど遠い雰囲気だ。
こうなると現場を検証して、彼女を調べてみないことには始まらないだろう。しかし一般人をどう調べるべきか……。
「もういいだろう」と山田が腹立ちまじりに言った。
「さっさと記憶処理をして、彼女を帰せ」
彼女は記憶処理という単語にぎょっとして、山田を見あげた。「当然だろう」とにらまれて、またもや縮こまっている。どうやら〈鏡面〉にいる間に、彼らのパワーバランスが決定したようだ。
「君には関係のない世界の話だ。とっとと忘れて、就活でもなんでも勝手にやれ」
ナオコはなにか言いたげにしている。
「なんかあった?」
マルコは身をかがめて、彼女の視線に合わせた。
自分とさして変わらない年齢にみえるが、彼女はどこか幼く、しかし、それがどうしようもない無垢に見えた。
黒々とした瞳に見つめられて、マルコは体の奥が熱くなっていくのを感じた。
おかしいな。風邪でもひいたのだろうか。ひそかに首をひねる。