眠れない男
無機質な廊下を、黒いスーツを着た男が歩いていく。
ロサンゼルスの10月は日本に比べると夏といっても過言ない暑さだが、ダウンタウンの地下に網をはるHRAの本社に限っては、肌寒いくらいであった。
彼が歩を進めると、人々がぎくりとした顔をして視線を落とす。
そんな光景を意にも介さず、彼はただまっすぐ歩いていく。
黒い扉が鎮座していた。横についたモニターが起動する。
「山田だ」と告げると、なんの返答もないまま扉がひらいた。
廊下の雰囲気とうって変わり、優しい雰囲気のする部屋だった。どっしりとしたタンスや家具が置かれ、毛並みの長い絨毯が敷かれている。
部屋の奥にあるベッドのまえに、壮年のアジア系の男性が立っていた。彼は扉の開いた音にふりむくと、わずかに嫌悪感をにじませた。
「やあ……シホくん」
男性は軽く会釈をすると、山田のために場所をあけた。
「日本支部長はどうしたんだ、君が来るとは聞いていなかったが」
ベッドに横たわった老人が「マルコはいま忙しくてな、来られないんだよ……」とこたえた。
枕にのった頭部には白いシートが載せられているが、浮彫になる輪郭はやせ細っており、彼が病床にふせっていることを示していた。
「日本支部でいろいろあったそうじゃないか、話を聞かせてくれ」
山田はうなずくと、男性を見た。彼は視線を泳がせたあとで「それでは」と足早に部屋を去った。
「あいかわらず嫌われているなァ」
くつくつと老人が笑った。山田は黙ったままだ。
「次の本部長であり、HRAのトップだ……機嫌取りはよいのか」
「機嫌なんてとってどうする。ただでさえ彼は俺が気味悪いだろうに」
「はっはっ、そりゃあそうだろうさ……」
布団のなかから枯れ木のような指先が出て、手招きをした。
「ついに日本支社でも死人が出たそうだね。聞かせてくれ」
「……東京都渋谷区にて〈虚像〉3体が出現した。二体を倒した直後に三体目が出現し、新藤由紀恵がやられた。死体はない」
「ふふ、食われたか」
「おそらく」
「遠慮しなくなってきたのだなあ……いよいよか」
山田は一瞬だけ悼むように目をふせた。そして、ぎろりと老人をにらむ。
「どうするつもりだ」
「……どうするもこうするも、わたしは死人だ」
老人は乾いた風のような笑い声をあげた。
「わたしは舞台から降りるんだよ、シホくん」
「あなたが行ってきたことは、あなたが死のうが続いていく。責任をとってから逝け」
「キミは厳しいなァ、あいかわらず……死に目にマルコじゃなくてキミが来るのは、わたしの罪悪なのかな」
老人は悲しそうな声でつづけた。
「疲れてしまったよ。わたしはね、もうどちらでもいいんだ。〈彼〉はわたしに選択権を与えなかった……」
「選択権なんぞどうでもいい。俺はあなたに聞いているんだ。マルコをどうするつもりなんだ」
「なにもしてやれん。キミもそうだろう? ん、いや、ちがうのか? どうなんだ? わたしと同じだろう? どうでもいいと思っているだろう? どちらが選ばれようが、関係ないと思っているのだろう……?」
山田が老人の胸倉をつかんだ。シーツが落ち、顔がむきだしになる。やせこけたほおの上についた眼球は真っ白くにごって、この世を見ていなかった。
「ハハ、そうだ、わたしがそうしたのだ……キミはとっくの昔に壊れてしまったのだったなァ。もう終わるしかないのだよ、シホくん。ほぅら、聖なる歌が聞こえるだろう?」
「壊れているのはおまえだ」
乱暴に手を離し、山田はつかつかとベッドの横の機械に歩み寄った。
「ふっふ、シホとはいい名前だ……『志』を『保』つという意味なのだろう? エリオットのやつが、よく言っていた……アジアの文化のなかでも、漢字だけは尊敬してやらんでもないとね」
山田は機械の前でたちすくんだ。
「彼は言ったなァ、シホはきっとお前を殺すだろうと」
こぶしが壁に叩きつけられた。
「どの口がほざく! 殺してほしいのはっ」
「自分のほうだ、とでも言いたいのかね、まだ若いのに悲しいことだ……はは」
老人は手探りでシーツを握った。見えない視線をさまよわせて、山田の息遣いを聞いた。ゆっくりと彼に顔をむける。
「……キミが手をくだすべき人物は、わたしではないだろう……机のなかに入っているぞ」
山田は老人をにらみつけると、機械から手を降ろした。そして机に近づくと、引き出しを開けた。
からっぽの空間に、紙に包まれた小さな筒が横たわっていた。
「キミが来ると聞いて用意しておいたんだ……いそいで行け。彼女はもう閉じてしまったんだ、いそがなければ……」
山田の表情が凍った。
「早すぎる」とつぶやく。
「そんなことはない、去年の冬が最後の子供だった……もう終わりなんだ。この物語はおしまいだ。ほぅら、いそげ。いそがないと、また失うぞ」
彼は歯噛みをして、きびすを返した。その後ろ姿に老人が声をかける。
「志を保てよ、シホ……両親たちが、そう願っていたように」
山田がいなくなったあと、老人は深呼吸をしてベッドにもたれかかった。久しぶりの長い会話が、彼の体に大きな負担を与えていた。
ベッド脇に置かれたチャイムを鳴らすと、すぐに看護師がやってきた。
「水を……それと」
彼は目をつむると、優しくほほえんだ。まるで父親のように穏やかな顔だった。
「彼女の生命維持装置を切ってくれ、いますぐに」