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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れない男の夢
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恒常化、

 飯田に返事をしたのは、2日後の日曜日だった。話したいことがあるとメールを送ると、彼は一も二もなく夕飯に誘ってくれた。


「……よろしくお願いします」と頭をさげると、彼は安堵と喜びの入りまじった微笑みをうかべた。了承してよかった、と思わせてくれる表情だった。

 帰り道、彼はさりげなく手をつないできた。そして「ナオコちゃん」と呼んだ。


「なんだか、変ですかね……? ナオコ、ナオコちゃん」


 口のなかで響きを確かめるように、何度も呼ぶ。恥ずかしく思いながらも「達也さん?」と自分も名前を呼んでみた。不思議な感じがした。


「たっつんでも」と彼は笑った。「でも、達也くんとかでいいですよ」


 ナオコはうなずいた。くすぐったい幸せが指先から伝わってきていた。彼の手のひらは、あたたかい。




 4年ぶりに恋人ができた翌日、ナオコは晴れ晴れとした気持ちで出勤した。幸せなオーラをまとっていたからか、山田の部屋を訪れると気味の悪そうな顔をされた。


「徹夜でもしたのか」


 彼女はベッドに座るなり「していませんよ」と答える。


「……なにかあったのか」


「なにも?」


 彼はカッターの消毒を始めたが、その顔をあいかわらず怪訝そうだ。


「例の男となにかあったのか」


「いえ?」


「ちゃんと答えろ」彼は不服そうに言った。


 ナオコは話しても構わないかという気分になった。いささかお節介気味であったとはいえ、手助けをしてもらったわけだし。きっと話したら喜んでくれるだろう。


「じつは、例の人とお付き合いすることになりまして」と、さりげなく聞こえるように話す。


 山田は目を丸くした。手からカッターがすべり落ちそうになっている。


「あぶないですよ」と注意すると正気にもどって消毒を再開したが、ぼやっとしている。

 ナオコは首をかしげた。彼のことだから聞いたとたんに「これで寿退社に一歩近づいたじゃないか、さらに励めよ」などと偉そうにするかと思っていたのだが。


「……もしかして、本当に彼氏ができるとは思っていなかったんじゃ」


 疑わしさを口にすると、彼は「いや」とかぶりをふった。


「じゃあ、なんでそんなに気の抜けた顔をしているんですか」


「そんな顔していないだろう」


 彼はむっとした様子で、腕を出すように指示した。前と同じ場所に傷をつけられる。


「ただ」


 彼は浮かびあがってくる血の玉をみて、視線をそらした。腕を支えている指先から力が抜けていったので、ナオコは自分で腕を支えた。


「吸血が申し訳ないと思っている、とか」


 沈黙が肯定をあらわしていた。


「申しわけなくなんてないでしょう。こんなの輸血みたいなものじゃないですか!」


 胸をどんと叩いて見せるが、輸血とは違うだろうなと内心で思う。目撃されたら気まずい思いをする行為であることは確かだ。

 それでも吸血を拒否されたくなかったので、彼女は立ち上がって身を乗り出し、腕を山田の肩にのせた。 唇が傷口に近づくと、彼は耐えきれなくなったのか血に吸いついた。あわい舌の感覚を感じながら、白い首元をながめた。

 あそこに灰色の痕が浮かびあがる光景は、いまだに目の裏に焼きついている。あんなものは二度と見たくないし、彼が弱ってしまう場面はなおさらだった。


「……申しわけないと思っているわけじゃない」


 口をはなした山田は、ナオコの腕を肩から降ろさせた。


「ただ間違っても、その奇特な奴によその男に血を吸わせているなんて話はするなよ」


「しませんよ、さすがに……変態だと思われちゃいます」


「ならいいが」


 顔をしかめる彼に「投資の結果が出たって喜んでくれないんですか?」とたずねる。


「喜んでいるさ、もちろん」


 コットンに消毒液を垂らしながら、彼は真顔でこたえた。どうにも喜んでいるようには見えないが、彼が明るい顔をしているほうが珍しいので、気にしないことにした。


 その代わりに「つぎは山田さんですね」と指をたてる。


「今度はわたしが山田さんにまともな彼女さんができるよう、投資してあげます」


「遠慮しておく」


「どうしてですか? わたしにもお節介焼かせてくださいよ。山田さんにカワイイ彼女ができれば、もう少し普通の生活スタイルっていうものが身につくかもしれないでしょ」


「君の言う普通の生活は、俺たちが〈芋虫〉である以上、一生やってこないものだと思うが」


 冷や水をかけられたような気になる。いじけた気持ちで「でも」と口をひらく。


「異常な生活だから、普通のことが大事なんじゃないですか」


「……そうかもな」


 彼はため息をついた。


「だが、君の節介はいらん。自分のことくらい自分でやる」


「山田さんに任せておくと、また誰かが泣きをみるでしょう?」


 唇をとがらせたが、しらっと無視をされた。いつか彼にも良い出会いがあると良いと思うが、この姿勢こそが山田らしいのかもしれない。


 でも、もし彼にまともな恋人ができたら、吸血されるのは嫌かもしれないな。


 そう思って、ようやく山田の気持ちが分かった。わずかに顔を赤らめる。他の男性が触れた場所に口をつけるのは嫌だろう……そう気づいたのだ。

 先ほどの会話で察せなかったことを謝りたかったが、いまさら蒸しかえすのも恥ずかしい。

 よその男が、ね。ナオコは邪念を振りはらおうと天上を見つめた。


「ああ、そうだ。マルコ殿から聞いていると思うが、おそらく10月のどこかで出張になる」


「へ? どうしてですか」


 彼女は一瞬きょとんとしたが、すぐに思いあたって「えっと、HRAのトップの……」と言葉をにごらせた。選出会議には山田も出るだろう、とマルコは話していた。


「そうだ。まだいつになるかは分からんが、今月いっぱいは持たないだろう。マルコ殿は明日発つらしいが、俺は日程が決まってから出る予定だからそのつもりでいろ」


「どれくらいかかるんですか?」


「分からん。ただ選ばれる人間に見通しはたっているから、そんなにはかからないだろうな。長くて二週間くらいか」


「……体調、大丈夫なんですか?」


 アメリカに行っているあいだ彼に血を与えることはできない。ナオコは山田が空港で倒れるすがたを想像してぞっとした。


「ちゃんと誰かの血、もらわないとダメですよ。この場合は不貞行為に走ってもしかたがないと思うので……」


 真面目な発言のつもりだったのだが、ぱかんと頭をはたかれる。


「君はどうしてそういう方向にしか頭が働かないんだ? むこうで〈芋虫〉として活動はしないから、よけいな心配はしなくていい。それよりも、君こそ俺がいないあいだに妙なことをするなよ」


 俺がいない間は他の芋虫たちの手伝いをすることになると思うが。山田はそう続けて、はあっとためいきをついた。


「これだから行きたくなかったんだ。俺が行ってどうなるという話でもない」


 マルコの話では、山田はアルフレッドと親交があるそうだが、当の本人は悲しむ様子をみせない。

 深く踏み込んでいい話題なのだろうかと考え、結局質問するのはやめた。せっかくわずかながらでも心を開いてくれたのだ。彼の深部に立ち入るのは、もう少し信頼を得てからでもいい。


「アメリカに行くまえに、ちゃんと吸血しましょうね」


 それよりも彼の具合のほうが心配だ、とこぶしをぐっと握りしめた。

 山田は当然のように無視をして、椅子から立ちあがった。


 着信音が同時に鳴った。

 山田と顔を見合わせて、電話に出る。


「はい、中村です」


「保全部の大村です! 渋谷区センター街に異常種の出現が確認されました。5課3班の出動を願います!」


 緊張が伝わってくる声に、一気に背筋がのびる。


「わかりました、今すぐ向かいます」


「お願いします。ただいま2課1班が対応中ですが、連絡がとれていない状況です」


 ナオコは血相を変えて立ち上がった。電話を切るやいなや、部屋を飛び出そうとする彼女の腕を山田がつかんだ。


「待て! 焦るな」


「焦ります! 早くいかなきゃ、ケビンと由紀恵さんが」


 はやる彼女の肩が抑えつけられた。山田は深呼吸をして「行くなとは言わない」と真正面から見据えてきた。


「ただ……」


 彼の目に動揺をみると、ナオコはその手をにぎった。助けにきてくれたときのことを思い出す。その指先が震えないように、痛いくらいの力をこめる。


「大丈夫です。分かっています……無茶はしません、だから、山田さんも」


 決意が伝わったのかどうかは分からなかった。ただ彼は一度だけうなずき、背中をぽんと押してくれた。「行くぞ」と先陣をきって部屋から飛び出す。


 こんなときなのに、口元が緩むのを感じた。彼の背中を追ってもいい日が来たのだ。


「はい!」と答えて黒いスーツにつづく。



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