はなれられず
マルコは猫のように目を細めて、彼女を拝みこんだ。彼が得意の作戦に出たと思い、ナオコはなんともいえない笑みをうかべた。六月中旬、同じように山田の調査を頼まれたことを思いだしたのだ。
ただ、あのときと今では心情が違った。
「もちろんですよ、わたしにできることならば」
快諾すると彼は少しびっくりした様子だったが、すぐに「ありがとう」と礼を言った。
「ナオコくんにしかできないことだと思うからさ、そう言ってくれてうれしい」
「ふふ、そうですね。〈芋虫〉はわがままな人が多いから」
〈芋虫〉たちに悪い人間はいないが、多少癖が強いのは事実だ。そういう人間たちのなかに自分のような平凡が混ざっている意味を感じ入る。
「ごく普通の対応しかしてあげられないですけれど、その人がなじめるように頑張りますね」
「普通でいいんだよ。普通が一番難しいんだから」
彼がしみじみと言ったので、心のうらがわをくすぐられているような気持ちになる。
「でも、その人も〈芋虫〉として経験ある人なんですよね? 本当に普通の対応で大丈夫ですか?」
「ああ、そうだね。結構なベテランかな……ええっと、キャリアは6年近いね」
「ろ、6年」ナオコの自信がぐらついた。「まだ若いんですよね?」
「うん、20歳」
あんまりにもあっさりと肯定するので、ナオコは眩暈がした。本社の〈芋虫〉たちは幼いころから、そのキャリアを積むらしいとの噂は聞いていたが、まさかほんの子供のころから戦いを強いられているとは。
「……ほんとうに、わたしでいいんですかね」
「いいんだよ、普通が一番。〈芋虫〉なんて、タダでさえ異常な職なんだから、ちょっとくらい平均的なエッセンスが必要だ」
彼がけらけらと笑うので、彼女は「異常も異常ですけれどね」とつぶやいた。
「〈芋虫〉って、やっぱり特殊なんですね……」
そう考えると、いまさらながら自分がこの仕事をしている偶然が奇妙に思えてくる。
山田との取引の結果、特殊警備部にいられるのは幸いだったが、やはり自分のような平凡きわまりない人間がこの職についていることは相当に変わっているだろう。
「まあ〈芋虫〉っていう名前自体にそういうニュアンスがあるからね」
思いがけない言葉に「どういうことですか?」とたずねると、彼は「知らないの?」とにやにやした。
「もしかすると、ナオコくん。それほど読書が好きではないかな?」
彼女は言葉に詰まった。その通りである。
「『鏡の国のアリス』読んだことない?」
「……〈鏡面〉ってよばれる理由は、むこうの世界を〈鏡の国〉って呼んだからだってことは知ってますよ」
「そうそう、ロマンチックだよね。ま、一番初めに出てきた女性の名前がたまたまアリスだったから、揶揄した部分もあるらしいけれど」
アリスなんて珍しい名前でもないしねえ、と彼は付け足した。
「芋虫は〈鏡の国〉じゃなくて『不思議の国のアリス』の登場人物なんだ。特殊警備部にこんな愛称がついたのは、きっと〈芋虫〉が鏡の国から断絶した存在だからだろうね……煙にまくし」
「煙にまく?」
「水タバコを吸っているんだ。芋虫は」
そう説明すると、マルコはタバコを吸う真似をした。ナオコは山田の指先を思いだした。細く節の角ばった人差し指と中指だ。そこから突き出た白いタバコから、ひとすじの煙がたなびいている。
「〈虚像〉を煙にまいて〈鏡の国〉に追いやる、世界の外にいる存在。そういう意味なんだよ〈芋虫〉は」
「……本当にロマンチックというか、なんというか」
「子どもっぽいだろう。でも、むこうの人は正義のヒーローにやたらと名前をつけたがるから」
マルコは肩をすくめてみせたが、少しして「でも」と楽しそうに言葉をつづけた。
「ぼくも〈芋虫〉のみんなは、ヒーローみたいだと思うよ。とても憧れる」
「それを言うなら、いまのマルコさんはヒーローたちを支える博士のポジションですね」
そう指摘すると、彼はふざけて「それって最後に裏で糸をひいていた黒幕だって判明するパターンでしょ。ヒーローたちと全面決戦しなきゃ」と相好を崩した。
ナオコは彼の発言に由紀恵の疑問を思いだして嫌な偶然を感じた。
だがマルコがあまりにも純粋にほほえむので、その違和感をそっと胸のおくにしまい、それから美味しい昼食に舌鼓をうった。