つかずはなれず
マルコは以前とおなじく『かぶらや』の奥の席で待っていた。
彼はおだやかな笑みをうかべていたが、その表情にはうっすらと疲労の色がみえた。
「さっきはごめんね。新藤さんとの会話、邪魔しちゃって」
「あ、いえ……こちらこそ」
手早く注文を終えてから、彼は「彼女、ぼくのこと苦手みたいだからさ」と苦笑した。
「しかたがないけどね。アメリカに居たころからそうなんだ。年上のお姉さんに好かれない」
「そうなんですか?」
彼のような甘い顔立ちをしていると年上女性からの受けがよさそうだ、とナオコは思った。あいにく由紀恵が彼を嫌っているのは、そういう部分とは関係なさそうだが。
「うん、なんだろうね。意外とつまらないって思われるみたいだね」
マルコはお茶を飲んでから、それほど遠くはない出来事にたいして思いをはせるような顔をした。
「彼女たちは天真爛漫で少年のような心の年下を求めているんだ。部屋のなかでプラモデルを組みたてているような男は、およびじゃないってことさ」
思わずうなずき、くすくす笑った。そういえばそうだった。彼の秘密の趣味はある意味では少年らしいが、年上受けはよくなさそうだ。
「ほら、笑った」そう指摘しながらも、彼は安心したように口元をゆるめる。
「よかった。なにかあったって顔をしていたから」
ナオコは申し訳ない気持ちになった。由紀恵の言動は気になるが、目の前にいる青年が彼女の言うような、なにかをたくらむ人間であるとはどうしても思えなかった。
「ごめんなさい。最近いろいろあったので、ぼーっとしちゃって」と、声の調子を明るくする。
「それより、マルコさんこそ疲れた顔していますよ。やっぱりお忙しいんですね」
「うーん、そうだね。実は来週アメリカに出張が決まって」
ナオコはなんと口にすればいいか分からなかった。なにを目的とした出張なのかは、彼が言葉にせずとも伝わっていた。
「……大丈夫だよ」マルコは眉尻をさげた。
「もう心の整理はついたから。がんの良い部分は、こういうところだと思うんだ。向き合う時間をくれる。ちゃんと立派に見守るだけの体裁がとれるんだ」
「マルコさん」
ナオコはおしぼりをつついている彼の手に自分の手のひらを重ねた。人差し指が軽くはねたのを優しくにぎる。あたたかかった。
「気をつけて行ってきてくださいね」
「……ありがと」
彼はやわらかくほほえんで彼女の手を握りかえしたが、すぐに離した。
「ダメだな。こんなことをしたら、彼氏さんに怒られちゃうね」
ナオコは驚いた。彼氏なんていませんよと言いかけたが、飯田の件が頭をよぎり、開いた口は言葉を発することなく閉じられた。
「ごめん。さっき、ちょっとだけ話を聞いちゃった」と、彼は気まずそうにした。
「いえ、大丈夫です。恥ずかしいですけれど……」
「ううん、でも、いいなあ。ぼくも先んじて行動するべきだったかも」
「なにをですか?」
「君を彼女にしようと、行動するべきだった」
ナオコは目を丸くして、笑った。いいかげん彼のジョークにも耐性ができた。
「じゃあわたしが彼とうまくいかなかったら、お付き合いしてくださいよ」
からん、と伝票入れが落ちた。マルコの腕が当たったのだ。「おっと」彼はなんでもなさそうに拾い、「そんなこと言っちゃっていいんだ?」とつづけた。「本気にしちゃうよ」
「かまわないですよ? そうなったら、わたしがマルコさんのファンに殺されそうですけれど」
「へえ、じゃあ君の破局を楽しみにしようっと」
まだ付き合ってもいないのに、そんなことを楽しみにされてしまうとは。ナオコは内心で苦笑いをうかべた。だが彼のこの手の冗談に救われている自分がいるのはたしかだった。
「楽しみにしていてくださいね」と冗談めかしてみたが、マルコは思いがけず真面目な顔をしていた。
「うん。できれば、ぼくがアメリカから帰ってくるまでに破局していてね」
「……それは早すぎやしませんか」
「あくまでぼくの希望だよ。あ、そうだ」
彼は両手を打って「今度みんなに伝える予定だったんだけど、ナオコくんには先に言ってもいいかな」と話題を変えた。
「特殊警備部の人員強化が決まったんだ。何か月かまえから本社で検討してもらっていたんだけど、ようやくね。来月から配属される予定だよ」
ナオコは顔を明るくして「ほんとうですか!」とよろこんだ。
「うん、それで相談なんだけど。今度来る〈芋虫〉の子っていうのが、結構若い子でさ。しばらく面倒みてあげてほしいんだ……その子アメリカから出たことないし、初めての異国だから」
「それはかまいませんけど、わたしでいいんですか? ケビンとかの方が仕事を教えてあげられるんじゃ」
「いや、ナオコくんがいいと思うな。相浦くんも良い奴だけど、あんまり周りに気をくばるタイプではないだろう?」
「まあ、うーん、彼なりの気づかいはするんですけど……」
ケビンの気づかいは常に自分流なので、たしかに世話役としては不適格な部分があるかもしれない。とはいえ自分が適当だとも思えないのだが。
「ナオコくん、こういうの得意だろう? 〈芋虫〉のみんなは我が道を行く人が多いからさ、君みたいな人は希少なんだよ。頼むよ」