聞けない音が生かした
飯田は満面の笑みをうかべ「来てくれてうれしいです!」とナオコの手をにぎった。彼の手は熱く、興奮の残滓が伝わってくるようだった。
「飯田さん、かっこよかったです」と心から言うと、彼は「ありがとうございます」と照れた。
「すみません、本当にうれしくて。うまい言葉が出てこないんですが」
彼はちらりとバンドメンバーに視線を送った。彼らはにやにやとこちらを観察している。
まるで彼氏を応援しにきた彼女のようだと気付いて居たたまれなくなる。そっと手を離し、彼からこころもち距離をとった。
「えっと、こちら中村さんです」彼はせきばらいをしてナオコを紹介した。
「たっつんの彼女やろ」と言った女性に見覚えがある。初めて飯田と出会ったときに怒っていた女性だ。
「美奈ちゃんは初対面じゃないだろ。この機会に謝ったら?」と、飯田が苦笑した。その言葉に彼女は首をかしげて「なにを?」と返す。
「えーっと大丈夫ですよ」
彼の服のそでを引っ張り、そう止める。まさかあの時隣の席にいた人間の顔なんて覚えていないだろう。
「たっつんの彼女はいつもカワイイよなあ。会社つながり? シャカイ人になると俺にも彼女できる?」と、だみ声の男が肩をすくめた。
飯田は「はいはい、フリーターは黙っとけ」と冗談めかす。
自分は飯田の彼女でもなんでもないということを主張するべきか迷う。しかし肝心の彼が否定しないので言いだしづらい。
そのうち次のバンドの演奏が始まったので他のメンバーたちは観客に混じりに行ってしまった。
「すみません、中村さん。ちょっとだけ話せませんか?」
彼が音に負けないような大声で言った。
ナオコとしても外に出たかったのでうなずく。
彼は他のメンバーに「ちょっとだけ出る」と声をかけてから、彼女を連れて外に出た。
「本当はゆっくり話したいんですけれど。他のバンドの時にいないとひんしゅくを買うので、ここで」
ビルの外に人はいなかった。2人はひさしの下に立って向かい合う。
「ライブってこんな感じなんですねえ……」
一気に静かになった周囲にホッとためいきをつくと、その様子をみた飯田が「うるさいですよね」と苦笑いした。
「無理やり来てもらって申し訳ないです。慣れない人からしたらこういう場所って異様ですよね」
「あ、いや、うるさいとかそういうことはないです。ただ初めて来たので緊張しちゃって」
顔を手であおいで「なんでしょう、異世界みたいな場所」とつぶやく。あの場所には人間をトランス状態に持っていかせる魔力があった。この静けさを味わうとよけいにそう思う。
「たしかにそうですね。ぼくたちにとっては別人に変われる異世界なのかも」
「かっこよかったです、飯田さん。本当に」と、しみじみ言う。
「語彙力がなくて伝えられないんですけれど。飯田さんは歌っているときが、一番生きているって感じがしますね」
「そうでしょうね。ぼくもそう思いました。久しぶりにステージに立ちましたが……これは麻薬ですね」
飯田は自嘲するように笑うと「今日はもう帰られますよね?」とたずねた。
「そうですね、明日ちょっと用事もあるので」
「ですよね。すみません、お忙しいのに……」
飯田はくりかえし謝りながらも、なにかを言いよどんで別れを告げはしなかった。
風が強く吹いた。急な秋風にくしゃみが出る。
彼は「あ」と小さく声をだして、電柱の後ろにひっぱってくれた。
風から守るように前に立ち「今日は寒いですよね」と話す。
「本当にそうですね、このあいだまで暑かったから」
「そう、薄着で出ると意外と寒くて……」
腕をつかんだ手に力がこもった。彼を見あげると、肩が触れあいそうなくらい近くにいた。
どういう顔をすればいいのか分からなかった。
彼は電柱に書いてある文字を見ていた。手は離れない。
「中村さん」
「は、はい」
まだ夏なのか、秋なのか。季節と季節のあいだを行き来する体温が、彼の手のひらから伝わってくる。
「いま、彼氏さんはいますか?」
真剣な声色に「いないです」と小さくこたえる。
「まだナオコさんと知り合って間もないんですが……ぼくはあなたにすごく惹かれています」
ナオコは自分の体がぽーんと遠くに放りだされてしまったようだった。意識だけがやけに明瞭で、手足に力が入らない。
「ぼくと、付き合ってくれませんか」
あ、そういえば今日、眼鏡をつけていないな……ナオコは関係ないことを思った。眼鏡があるほうが好きかもしれない。彼の目は真正面から見つめるには、あまりに澄みきりすぎている。
彼はじっと返答を待っている。浮遊した思考をなんとか手繰り寄せて「ありがとうございます」と口を動かす。
「その、いきなりなので」
うつむきながら答えると「返答はいつでもいいので」と返される。
「こんなテンションで言うことじゃないのかもしれないですが、早く言わないと後悔しそうだったので。中村さんの気が向いたときに、返事をください」
彼はバツが悪そうに肩から手をはなした。
「すみません、あの、うれしいんです。ほんとです」
ぽつぽつとした言葉しか出てこなかった。
彼は「驚かせちゃいましたね」と、背中をたたいてくれた。
「駅まで送っていきます」
「あ、大丈夫です。飯田さんは、戻らないとですよね」
首をぶんぶん横に振る。その様子に彼がほおをひきつらせたので、またやってしまったと後悔する。これでは告白に引いたように思わせてしまう。
「こ、こんど、会いましょう。晩御飯でも」とフォローを入れると、彼は安心したように「はい。ぜひ」とうなずいた。
「それじゃあ」
ぎくしゃくと歩きはじめる。背中に飯田の視線を感じて足早に進む。
ようやく息がつけたのは、駅のホームに着いてからだった。
告白された。
その言葉がロータリーを回る車のように回転していた。
まさかこんなに早く進展するとは思ってもみなかった。飯田と出会っておおよそ一カ月。気が合うとは思っていたし当初は由紀恵の提案もあって「そのつもり」があったが、最近では友達のように思っていた。つまり、心づもりができていなかった。
家に帰ってからようやく喜びが湧きあがったが、明日山田と約束をしていたと思いだして途方にくれた。ベッドに倒れこみあおむけになる。
告白をされたときって、こんな気持ちだっけ。
天上をながめながらため息をつく。うれしいはずなのに胸に穴があいたような寂しさがある。
目をつむって飯田の歌を思いだす。
あの歌は遠い場所から聞こえてくるようだった。手の届かないなにかが、それでもわずかに存在を残すような響き。そんな思いにさせる彼の歌が好きだ。でも、そのときの気持ちを当人からは感じなかった。
隣に彼がいたらきっと楽しいだろう。そう思うのだが。
ナオコは上体を起こして、部屋の向こう側にある鏡をみた。
この服は明日着られないな。がっくりと肩をおとす。