いかした音を聞かせ
翌週の月曜日の夜、ナオコは鏡とにらめっこしていた。
「うーん」とうなり、ポーズをきめる。スカートのフェミニンさに気恥ずかしくなってデニムジーンズを手に取り、動きを止める。
山田は意外ときっちりした服装をしてくる気がする。すると、こんなものを履いていったとたん「やる気がない」とちくちく言われるかもしれない。
彼女はかぶりをふって正気にもどろうとした。
時計はすでに20時をさしている。かれこれ1時間近くタンスと鏡のまえを行ったり来たりして、なにをしているのだろう。
「あーもう!」
彼女はベッドに倒れこんだ。それもこれも彼が見た目にうるさいのが悪いのだ。デートでもないのに着る服に迷うことになるなんて。
見劣りしないようにとか、でもやる気満々に見えないようにとか。こんなことに時間をとられている場合ではないのだが。
むくりと起き上がり決意をする。今着ているベージュのシャツと黒いフレアスカートでいいだろう。これなら品も良いし、やる気がなさすぎもありすぎもしない。
無理やり納得して服を着かえようと立ちあがった。明日は13時に新宿駅で待ち合わせだ。早起きする必要はないが準備のためにもさっさと眠っておきたい。
そのときナオコの電話が鳴った。山田からだろうかと緊張しながら画面を見る。飯田からだった。
「中村です」と電話をとると「中村さん! 飯田です」とテンションの高い声が聞こえる。
「急にすみません、いま、どこにいますか?」
「家ですけれど……」
妙にうわずった彼の声に首をかしげる。酒が入っているような感じだ。
「ぼく、いま下北沢にいるんですけれど、よかったら出てこれませんか? じつは今から飛び入りでライブに出ることになって」
彼は慌てているのか早口で言った。
「21時から、ゲリラっていう箱でやります。来れたらでかまいませんから……」
電話の向こうから、ギターの音やわずかなハウリングが聞こえる。
「本当に迷惑だってことは分かっているんですけれど。でも中村さんに伝えなくちゃって思って。よかったら、来てください」
ナオコは迷った。21時に下北沢ならば、すぐに家を出て駅にむかえば間に合う時間だ。しかし明日は山田との約束があるし、あまり遅くなっても困る。だが飯田は来てほしそうだし、彼の歌にも惹かれる。
「……わかりました、今から出ますね!」
歌だけ聞いてすぐに帰ってくればいい。そう思って承諾すると、彼は電話越しでも分かるくらい「ほんとうですか!」と大喜びをした。
「すっごくうれしいです! 待ってま……」
唐突な騒音に思わず携帯を耳から浮かせる。すると「なに、彼女さん? まってるよー、たっつんの歌、ビビるかんな」と男性のだみ声に変わった。
「こら、返せって! おい!」
遠くから飯田の声が聞こえる。彼のバンド仲間だろうか。
「すみません、中村さん。みんなちょっと酒が入っていて。えーっと、それじゃ待ってますね!」
彼は叫ぶように言うと電話を切った。
ナオコはすぐに家を出た。自転車にのって走りだすと意外に夜風が寒いことに気付く。
そうか。まだ暑いけれど、もう秋なのか。ナオコは十五夜を終えて痩せた月をみながら、飯田の歌を聞くのを楽しみにした。
下北沢に来たのは大学生のとき以来だった。映画サークルに所属していたときに、ミニシアターめぐりと称して女子だけで買い物にはげんだものだ。
夜になると怪しげな雰囲気をかもしだす街だ。バンドマンや小劇場の劇団員、アングラ趣味を引きずった年齢不詳の人々が小汚い喫煙所で談笑している。そのあいだをスーツすがたの社会人が、本当の巣に帰っていくようにするすると抜けていくのだ。
飯田はメールでライブハウスの位置を送ってくれていた。それを確認して歩いていったのだが道に迷い、結局到着できたときには21時を少しすぎていた。
ライブハウスは駅から10分ほど歩いて商店街を抜けたさき、細い路地に建つビルの地下にあった。周囲にちらほらと人がいるおかげで、なにかが行われていることはそれとなく分かる。
ナオコは気後れした。こんなに小さなライブハウスに入るのは初めてだ。
みんなが狭い階段をおりてチケット代を置いていくのを真似しながら、どきどきする。シールが大量に貼られた重い扉を押すと、中にもう一枚扉があった。腹の底を突きあげる低音と歓声が聞こえてくる。
思いきって扉をあけた。赤い光が彼女のほおを照らす。ライトがステージ上を白くそめあげ、下から手を伸ばす観客の悲鳴を消し飛ばしていく。その中央に立っているのは、マイクスタンドにもたれかかっている飯田だった。
狭いライブハウスだったが、かなりの人が入っているように見えた。若者が多いが、なかには社会人らしき人もいる。
ナオコは壁際に寄ってステージをほうっと眺めた。激しいギターのリフが流れ、ステージを照らすライトが青く変わる。キーボードの音と飯田の声がひびく。もう一度サビに入る瞬間に観客がひとつの生き物のようにわきたった。
曲が終わると、すぐに「たっつんー!」と黄色い悲鳴がひびいた。「おかえりー!」
「えーっと、ただいま?」
飯田はマイクを片手に照れたように頭をかいた。観客が拍手をする。
「まあ、今日は飛びいりなんですけれど。美菜ちゃんとたまたま会ってですね。急に歌うことになりました……こうやって見ると、みんな見た顔ばっかですね」
彼はぐるりと観客をみわたした。ナオコは別人のような彼を他人のような気持ちで眺めていたのだが、目がばっちり合ったので心臓が空中で回転したような気分になった。
「……一見さんもいますね」
前の方にいた客がナオコを振り向いた。思わず下を向く。
「『ドウドウ』の達也です。ボーカルを務めていた裕くんが急遽帰省したということで、歌わせてもらえることになりました。いまの『ドウドウ』ファンの方には申し訳ないんですが、今日はぼくで我慢してくださいね」
「たっつん、もどってこないのー?」誰かがさけんだ。
飯田は苦笑しながら「今は戻ってるよ」と言った。
すぐさま始まった次の曲を聞きながら、生き生きとしている飯田をただ眺めた。
彼は歌うことで生き返ったような顔をする。いまの彼は王様のように、この小さな空間を支配していた。
一時間ほどたって『ドウドウ』の出番は終わった。
ステージから降りた飯田たちは、すぐにファンたちに囲まれた。
彼は親し気に話しながらもナオコを発見すると「中村さん!」と手をあげた。
いっせいに視線がささる。内心怯えながら彼に近き「おつかれさまです」と頭をさげた。