アンチデート派
彼の女性関係への回答は、予想外に早く得ることができた。
翌日の午後、出動命令がくだったさいに、山田が「手を切った」と告げてきたのだ。
「あのあと部屋に行ってみたら、君の言うように彼女がいてな。都合がよかったから、さっぱり手を切った」
午後2時の山手線は平和そのものだったが、ナオコは目をむいて、左横の席に浅く腰かけていた彼を凝視した。
「手を切ったって、別れたんですか!?」
「交際していたわけではないから、別れるという表現があっているのかどうか知らんが。まあ、そうだな。出て行ってもらった」
あまりにも簡単に言うので、ナオコは唖然とするしかなかった。山田だったらありえそうな行動だと思ってしまうのが悲しい話だ。
「……それ、彼女さんはすんなり出て行ってくれたんですか」
「ああ。荷物をまとめて、あっさりと行ったな。ただ、服も一緒に持っていってしまったから君に貸してやれるものがなくなったが」
「いや、そんなことはどうでもいいんですけれどね……」
信じられない気持ちだったが、こと恋愛に関してはなにが起こるか分からない。山田を好きになるような女性だ。もしかすると別れを告げられて、気持ちの切り替えができたのかもしれない。すくなくとも、そう想像するしか慰めがなかった。
「どうでもはよくない。良い投資になりそうだったんだぞ」
山田は彼女が去ったことよりも、服のことが気になっているようだった。なぜ彼がそこまで自分の服装に固執するのか理解できず「もういいですよ、そのことは忘れて」と言う。しかし「よくない」と断固として引かない。
それでつい「わたしの服になんだかんだ言うヒマがあるなら、ほかの女性に服でも買ってあげればいいじゃないですか。その人はともかく、べつの彼女さんがいるでしょ」と嫌みったらしい発言をしてしまった。
「彼女なんぞいないが」と、彼がきょとんとする。
「でも」と言いかけて、口を閉じた。遊ぶときに特定の女性を作らないタイプだと見抜いたのだ。
「……それにしても、あれでしょう。遊び相手でも服とかプレゼントしたりするでしょう」
彼は不思議そうな表情をした。
「どうしてそんなことをするんだ?」
「どうしてって、わたしに聞かれても……そういうものじゃないんですか。デートのついでに買い物したりとかするでしょう」
電車が大きく揺れて止まった。緊急停止アナウンスが流れて、車両に沈黙が流れる。
「デート」
素朴なつぶやきは、緑豊かな窓辺にぽとんと落ちた。
「いや、したことがないな」
「は?」
「あれだろう。街をあてもなく歩いたり、外食をしたり、そういった一連の流れを経て親密度を高める行為をデートと呼称するんだろう」
まるで辞書から引いてきたように話す様子に、ナオコは動揺が隠せなかった。
「ないんですか?」
「ないとダメなのか?」
彼は困り顔で首をかしげた。その様子がどこか子供っぽくて「ダメです」とは言えなかった。
「でもデートをしないで、どうやって女性と仲良くなるんですか?」
「……仲良くなる必要があるのか?」
心のそこから不思議に思っている、という表情だったので、ナオコは彼が天然のジゴロだと察した。仲良くなろうと努力をせずとも女性が勝手に寄ってくるタイプなのだろう。たしかに渋谷界隈にはその手の積極的な女性が見られるし、彼は目立つ容姿をしている。
それにしてもデートをしたことがないとは。
「山田さんって変なところ世間ずれしてますよね」
ナオコはしみじみと言った。
「わたしだってデートくらいしたことありますよ……というかデートをしたことがないのに、なんで服装とかアドバイスしてきたんですか」
言い得て妙だが、こと『デート』に関しては自分のほうが経験があったのだ。どうしてアドバイスなんてする気になったのだろう、と質問する。
「まあ、結局は見た目だからな」
「……そんな最低なこと、よく真顔で言えますね」
思わず辛辣になった。彼が女性を見た目でしか選んでいないので、自分にも服装をうるさく言うのだと気づいたのだ。
「最低ではないだろう。外見ほど分かりやすいものはない。中身だなんだと根拠のないものに価値を見出すほうがどうかしている」
「外見だって年とったら変わるじゃないですか。山田さん、外見でしか女性を見ていないからまともな恋愛できないんじゃ」
「そうは言うが、そもそも恋愛に価値なんぞないだろう」
「じゃあ、なんでわたしに寿退社すすめるんですか。価値がないものを人に押しつけるなんてひどいです!」
彼は肩をすくめて「そう怒るなよ」と返した。
「結婚と恋愛は違うだろう。すくなくとも君はまともな男と交際してきたのだから、俺のような男とは縁遠いはずだ。君は男性と恋愛をするのではなく、人間と恋愛をしているのだろう?」
言葉につまる。彼はときどきこういった哲学めいたものを持ち出して、話を煙にまこうとする。
「だれだって、人間と恋愛していますよ」
「そうだと思うか?」
彼は薄くほほえんだ。
「実際のところ恋愛などするのは人間だけだ。だから男だろうが女だろうが、自分は人間であると信じていると欲求を恋愛などと言いかえる……そこになにが隠れていても、それは美しい愛だとな」
「……わたしは恋愛がなんなのかなんて分かりませんけど。でも山田さんに出て行けって言われた人は、悲しかったと思いますよ」
「そうなのか?」と、彼はたずねた。
その様子が無知な子供のようだったので、余計に複雑な気持ちになる。去って行った女性の気持ちがまるで想像つかないようだ。
そしてそれは、山田自身がだれかにそういった恋情を抱いたことがないとも示している。
「きっと、ですけれど。悲しい思いをさせたらダメですよ」
山田はうつむき加減なナオコをみて弱ったように視線を泳がせたが、しばらくして「気をつける」とおとなしく受け入れた。
素直にうなずいたことに驚いたが、山田はこういう部分のある人間だ。持論をもっているが、根拠がなければ固執はしない性格なのだろう。
「……服、買いにいきましょうか?」
だから、ぽろっとそんな言葉が出てきてしまったのは、一種の友情のようなものを感じたからであり、決してやましい思いはなかった。
「その、山田さんは普通の生活スタイルっていうのを味わったほうがいいですよ。わたし、このあいだ思ったんですけれど、やっぱりHRAって変わってます。きっと山田さん、通常の感覚がマヒしちゃっているんです……デートじゃないですけど、練習はしたほうがいいですよ」
ナオコはどんどん早口になっていった。提案しながら、とんでもないことを言っていると気づいたのだ。デートではないと断りを入れておいてなんだが、これはデートの誘いと捉えられてもおかしくない。
「練習って、なにをだ」
「だ、だから、普通に人間と恋愛する練習、ってそうじゃなくて。普通の人間の感覚を養ったほうがいいんです! わかります? わたしの言っている意味」
冷や汗をかきながら言動を訂正する。これではまるで自分が山田とデートをしたいかのように聞こえる。自分はただ、彼にもう少しだけ人の気持ちを分かってほしいだけだ。
「その、きっと彼女さんのことも、もっと上手いやり方があったと思うんです。だから、もうちょっと普通のやり方を知ったほうがいいですよ……山田さんがモテるのは理解していますけれど」
なんでこんなことを言ってしまったのだろう。ナオコは今すぐ車両の窓ガラスから飛び出ていってしまいたかった。顔が赤くなっていく。
山田は真面目な顔をした。
「よく分からんが、君が服をそろえる気になったことは歓迎すべきだ。普通の感覚だなんだは知らんが、君には例の男の件もあることだし、まともな服装をする必要がある。その投資をする気になったなら、そうしよう」
「……えええ」
あまりにもあっさり承諾するので、思わずそんな声がもれた。そこは拒否してほしかった。なぜいつも彼は承諾してほしいところで拒否をし、拒否してほしいところで承諾してしまうのだろう。
「そうと決まったなら、そうだな、来週の火曜は一日休みだったか」
「そうですけど……」
同じ班なので休みも一緒だ。ナオコはしぶしぶうなずいた。
「では、その日だな」
なぜこんなことになってしまったのだろう、と後悔をしてもすでに遅い。
魔が差したのだ。普段偉そうにしているのに、あんな風に素直になるほうが悪い。心のなかで言い訳をする。
せっかく会社に残れることになったのに、どうしてまだ山田に振り回されているのだろう。
ナオコはため息をつくしかなかった。