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鏡の国のバカ  作者: 阿部ひづめ
眠れない男の夢
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カラオケは本性が出るので、歌わないのが最良

 それから2時間ほどは、交互に歌ったり話をしてすごした。

 店から出るころには、ナオコはすっかり打ち解けた気持ちになっていた。飯田がまじめで立派な社会人である上に、実はサービス精神旺盛でユーモアのセンスもある人間だと知ったのだ。

 すっかり友達のような気分で、2人は駅へとむかった。時刻は午後23時だ。そろそろ帰らなければ明日の仕事にひびく時間である。

 山手線の切符売り場の前で立ち止まる。


「今日は飯田さんの歌、聞かせてくれてありがとうございました」


「いえいえ、ぼくこそ楽しかったです」


 彼はほほえみながら「やっぱり人に聞いてもらえるとうれしいですね」と言った。その表情には音楽への羨望が混じっている。やはり完全にバンドのことを諦めているわけではないのだろう、

 彼の背中を押したい、と思った。もしかすると差し出がましい行為かもしれない。だが喫茶店で話をしたとき、飯田は自分がどう思われるかなんて気にせずに考えを話してくれた。

 ナオコは彼の目をじっと見た。


「わたしは歌に詳しい人間ではないですけど、飯田さんがちゃんとバンドで歌っているところが見たいなって思います」


 彼は困り顔をした。


「そう言ってくれることは、ありがたいですけれど」


「戻らないんですか?」


「……戻らないと思います」


 彼は視線をさげた。駅前の騒音が急にさわがしくなったような気がして、気がとがめた。やはり言わないほうが良かったのかもしれない。


「でも、中村さんにちゃんとぼくがやってきた音楽を聞いてほしいって、すごく思いました」


 彼の手がナオコの腕にふれた。どきりとして見あげると、緊張した面持ちで「中村さんに聞いてほしいんです」と繰り返す。


「ぼくがやってきたこと、ぼくが捨ててきたもの、そういうものを、ちゃんとあなたに判断してほしいって思います……こんな年になって、子供みたいなことを言っている自覚はあるんですが」


 ナオコに彼の腕を払うことはできなかった。なんだか自分の腕までもが、他人のものに感じられる。


「また会ってください。嫌でなかったら」


「あ、はい……もちろんです」


 飯田は手をはなすと真面目な顔で頭をさげ、改札へと消えていった。

 背中を見送りながら、今日は笑っていないのだなと考える。




 バスターミナルにいる人間は独り者がほとんどなので、考え事にはうってつけだ。

 ナオコは周回しているバスをながめながら、彼の態度の意味を考えた。

 自分に好意をもってくれている。そうおごりそうになる気持ちを慎重な部分が止める。

 彼は友達として信用してくれただけだ。まだ数回しか会っていないわけだし、そんな簡単に好きになられるはずがない……。


 到着したバスに乗り、ため息をつく。だれかに相談したかった。男心なんて分からない。

 今度由紀恵に相談してみようと思いながら、携帯をひらいた。

 画面に不在着信の知らせが浮かんでいる。宛先を見て驚く。午後18時頃、山田志保から着信ありと記載されていた。


 ナオコはバスから降りると、すぐさま電話をかけた。もう時間が遅いが、山田のことだ。まだ起きているにちがいない。

 静まりかえった住宅街に、着信音が鳴る。

 電話がつながった。


「山田だが」


「あ、中村です。どうかしましたか?」


「ああ。君と約束をしていたと思いだしてな……早めに言うべきかと電話をした」


 彼は淡々と話した。てっきり仕事の件だと思っていたのだが、この様子だと違うらしい。


「先週、あの後、例の男とは会ったのか?」


 警備の仕事をしていたさいに、山田に話しかけられたことを思いだす。


「ええっと」


 さっきまで会っていましたとは、なぜか言いたくなかった。


「会いましたよ」


「そうか。次の約束は?」


「なんでそんなこと聞くんですか。わたしを寿退社させよう作戦は、もうなしになったんじゃないですか?」


 飯田のことをあまり話したくなかったので、あえてそう言った。


「会う約束なんて、分からないです。もう会わないかも」


 すると彼は少しだけ声を低くして「なぜだ?」とたずねた。


「なぜって言われても」


「ちゃんとめかしこんで行ったのか? 化粧は? 髪は? 君はすぐに気を抜くからな……男にやる気を与えるよう努力したのか?」


 ムッとしつつ「いちおう良い服を着ていきましたよ」と返す。


「ほら、このあいだ着ていたやつです。吸血されたときに」


 そこまで言って彼は「ああ」と納得した。


「そうか、あの日に会っていたんだな……待て、そうすると、君は例の男とのデートを切り上げて仕事に行ったわけか」


「そうですよ。出動命令がかかったから」


 電話越しに深いため息が聞こえた。


「わたしだって行きたくて行ったわけじゃないです……それに、べつにそれで怒ったりするような人ではないですから」


「だが次の誘いはなかったんだろう?」


「……ありましたけれど」


 それで、さっきまでその彼と会っていましたけれど。心のなかで言葉をつづける。


「なんだ、会ったのか。早く言え」


「山田さんに言わなきゃいけない義務なんてないじゃないですか……」


「ある。君との約束があるからな」


「だからその約束ってなんですか」


「ろくな服がないとわめいていたじゃないか。俺に服を返すだのなんだの言っておきながら、そういうことを言っているから、てっきり他の服が欲しいのだと思っていたんだが」


 やっと納得がいった。先週、山田が言っていたのはそういう意味だったのか。


「待ってください。あれから彼女さんと連絡はとったんですか?」


「いや。連絡先も知らないし、家にも帰っていないから分からないな」


 あっさりとした返事に頭痛がした。


「それじゃあ、もしかしたら家に彼女さんが戻っているかもしれないじゃないですか。そしたら他の服を借りるどころか、修羅場になっちゃいますよ」


「戻っていないだろう、さすがに」


 彼はあきれたように言ったが「分からないですよ」と否定する。


「だってその方、山田さんのことが好きで、それで家に押しかけてきたんでしょう。そんなに好きだったから、一月も戻ってこなくて、悲しくて、家を荒らして出ていっちゃったんです……気持ちが落ち着いたら戻ってくる可能性は十分にありますよ」


 沈黙がおりた。山田を言い負かせたようだ。

 気分をよくして「だから早く帰ってあげて……」と口をひらく。


「君の言うとおりだな。悪手だった、手を切ろう」


「は?」


 ぶちり、と電話が切れた。

 ナオコは携帯電話を見つめた。あくしゅ、握手、悪手。手を切ろうとはどういう意味だろう。

 まさか自分とだろうかと考え、顔を青ざめる。

 あまりにも直接的に彼を責めすぎただろうか。しかし同じ女性として、山田の彼女に同情を禁じえなかった。

 あんな男性が好きでは身が持たないだろう。すくなくとも自分は耐えられない。

 最近では悪い人間ではないと分かってきたが、やはり皮肉屋で人の話を聞かない部分は変わらないし、わがままで自分勝手だ。

 ふと彼の女性遍歴が気になった。同棲していた彼女とは交際していないと言っていたが、ほかに付きあっている人がいるのだろうか。

 由紀恵を代表とする〈芋虫〉たちのうわさを聞くとかなり遊んでいるとの話だが、実際にはどうなのだろう。


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