やさしい上司
十五時四十分。ナオコは、シャワーを浴びて、執務室へむかった。
エレベーターがひらく。カーペットが敷かれた廊下の、左にある扉をノックする。
「お疲れさまです。中村ナオコです」
すぐに扉が開いた。
「お疲れさま。ごめんね、呼びだしちゃって……入って」
出てきたのは、目もくらむような美青年だった。
稲穂のような金色の髪に、海のような青い瞳をしている。趣味のよい茶色のスーツを着ているが、顔立ちはまだ少年の甘さがのこる。
彼が、株式会社HRA日本支社のCEO、マルコ・ジェンキンス氏であった。
執務室は、落ちつく内装だった。壁際にある執務机は、どっしりしている。その背後に大きな窓ガラスがあり、住宅街と、その先の繁華街を遠く見下ろせた。
マルコは、革張りのソファをすすめた。
「ちょっと待ってて」と言って消えたので、ナオコはおとなしく腰掛けて待った。
少々散らかっている。ガラステーブルに『2018年度鏡面報告 5月』とのファイルが置かれている。興味がないわけではないが、読んだところでグラフと計算式のオンパレードだ。ずらりと並んだ本棚も、難しそうな専門書ばかりだ。
ぼーっとタイトルを眺めていると、
「おまたせ」と言って、マルコがお茶を持ってきてくれた。
「ああ! すみません、気を遣わせてしまって」あわてて立ちあがる。
「いいのいいの、ぼくがやりたくてやってるんだから」
と、制止された。
手際よく紅茶が入った。品の良い香りがする。
紅茶とマルコは、よく似合った。どこか紳士然とした雰囲気のある青年なのだ。
「ありがとうございます」
恐縮しながら、一口飲む。
マルコは、目をほそめながら「おいしい?」と、たずねた。
「はい、とても……」
「それは、よかった。このあいだね、保全部の子にもらったの。バラの紅茶なんだって」
にこにこと話す彼に、笑顔をかえす。しかし、内心は緊張しきりだった。
「ええっと、それで、わたしになにか……?」
それとなく話題をふると、マルコは微笑んだ。
「雑談、いや?」
「え、あ、いや、そんなこと!」と、泡を食って否定する。
「うーん、でも、緊張してる」
彼は、ほおに手をあてた。
「なんかやましいことでもあるの?」
「えええっと」
まごついていると、彼は笑みをふかめて、
「冗談だよ」と言った。
「中村くん、ここ来ると、いつもこうだね。ビクビクして……かわいいけど」
恥ずかしさで顔が熱くなる。これだから、この青年が苦手なのだ。彼は優しいし、紳士的だ。信頼できる上司でもある。
だが、コミュニケーションが海外的だった。ことあるごとに「かわいいね」だとか「それすてきだね」と褒めるし、あげくにスキンシップも激しい。
彼自身を好いている。そのため、セクハラだなんだと声高に叫ぶつもりはない。ただ、苦手なのだ。それは、彼の顔面が、平均以上の偏差値を叩きだしていることも関係する。
ナオコは、イケメンが苦手だった。
まじまじとこちらを見つめられ、顔から湯気がでそうだ、と思っていると、
「そうだ」と、彼が口をひらいた。
「はい?」
「中村くん、今日、このあとご予定は? 宿直ではないよね」
「あ、はい。特に予定はありませんが」
「それじゃあさ、ごはん行かない? ちょっと早いけど、晩御飯」
「え」
思わず声をあげてしまった。
「あ、でも、話はここでしないと、まずいんじゃ」
マルコは「いや」と否定した。
「食堂じゃなくて、外行こう。理由は、あとで言うけど……それに、そのガチガチな様子で話するのも、なんかヤダしさ」
そう言われてしまうと、拒否しづらい。
ナオコは「わかりました」と、うなずいた。
顔に戸惑いがでていたのか、マルコは小首をかしげて、少しだけ悲しそうな顔をした。
「いやなら、ここで話すけど」
しゅんとした様子でつづける。
「でも、ほら、中村くんと久しぶりに話をしたいのも、あってさ。いやじゃなかったら、友達としてご飯につきあってほしいんだ」
ナオコの良心が音をたてた。そういう顔をされると、弱い。
「ぜんぜん嫌じゃないですよ!」
と、勢いよく言う。
「その、迷惑じゃないかなって思っただけで」
「めいわく? ぜんぜんそんなことないのに」
彼はほっとした様子で、立ちあがった。
「それじゃ、問題ないなら行こっか。ちょっと時間早いけど、空いているほうが良いしね」
「了解です」
ナオコもつづいて立ち上がろうとしたが、紅茶がほぼ手付かずであると気づいて、とっさに飲み干した。
「無理しなくていいのに」と笑われたので、
「おいしかったので」と照れ笑いをする。
彼はきょとんとして、
「どーも」
と、くすくす笑った。
マルコは、ナオコをよく呼び出した。それは特殊警備部に入ってから、いっそう頻繁になった。
これには理由がある。
ナオコの入社が、かなり特殊な状況下で行われたからだ。
四年前、ナオコはHRAに新入社員として入社した。
これが特殊だった。HRAは、新入社員を取らない。
たいていの場合は、身よりがなかったり、特殊な才能を見込まれた裏世界の住人がスカウトされてやってくる。それは特殊警備部だけではなく、〈鏡面〉の管理を担当する「保全部」、〈虚像〉の発生を未然に防ぐ「常駐警備部」にしても同じことだった。
ナオコは、この会社で唯一の新卒入社した社員なのだ。それも、ある事件を通じて〈虚像〉に偶然遭遇し、マルコから直接勧誘された。ちなみに、その現場には山田もいた。
おそらく、責任を感じて気を遣ってくれているのだろう。
たいへんありがたいことだ、と、ナオコは思った。
ただ、再度強調すると、彼女はマルコが苦手だった。
まぶしすぎるのだ。光を発しすぎていて、凡人には厳しい。
マルコに連れられたのは、会社から十分歩いた場所にある『かぶらや』という店だった。こじんまりとしたビルの一階にあり、まだ開いていないようだったが、
「こんにちは」
と、マルコが格子戸をひいて声をかけると、おかみさんらしき女性が、
「あら、いらっしゃい」と、中に通してくれた。
彼は、この店の常連らしかった。
「すみません、早く来ちゃって……新しいファンを連れてきたので、かんべんしてください」
ナオコの背中をたたいた。ちいさく頭をさげると、おかみさんが意外そうにした。
「あら、珍しい。いつもひとりなのに」
「たまには、ぼくにも友達がいるってところを見せないと」
彼は、けらけらと笑った。
「彼女さん?」
「ちがいますよ。後輩です」
「へえええ」
おかみさんは遠慮のない視線をナオコにむけてから、そのぶしつけさを打ち消すくらいの満面の笑顔で「いっぱい食べてって」とメニューを机にドンと置いた。
店内は、民芸調の内装で、日当たりが悪かったが、それが逆に居心地のよさを作っていた。
「中村くん、カツオすき? ここのカツオのあぶり定食、すごくおいしいよ」
「あ、そうなんですか」
「うん。超おすすめ、あ、でもチキン南蛮も捨てがたいかな……」
彼は、真剣にメニューを眺めていた。
ナオコは自然とほおがゆるんでしまい、あわてて気を引きしめた。
これが彼の恐ろしいところだ、と勝手に思っていた。
マルコは、相手のふところに潜るのが上手い人なのだ。なので、ナオコはうっかり気をぬいてしまい、彼が偉い人間であると忘れてしまいそうになる。
そして、忘れたころに、また彼のすばらしさを発見して、本当に情けない気持ちになるのだ。だから、気を引き締めていないといけない。
「ぼくはあぶり定食にしよう」
ナオコは、まだ注文を決めかねていた。
すると、彼は茶目っ気たっぷりに、
「中村くんがチキン南蛮にしてくれるなら、すこし分けてあげなくもないよ」と、言ったのだった。
これだ。こういうところが苦手なのだ。
ナオコは、心底参ってしまった。おなかをみせる犬のような気持ちで、
「そうします」と、うなずく。
注文を終えると、そこはかとない沈黙がおりた。
「いきなりなんだけど」
マルコが、話の口火を切った。
「山田くんとは、最近どうなの? 仲良くやってる?」
ナオコは意表を突かれた。
これまでの呼び出しの経験から、部署の様子や、業務に不満はないか、などと聞かれると思っていたのだ。
「ええと、そうですね」
「うん」
「……ええと」
彼女は、口ごもった。
「言いたいことがあるなら、言わなきゃダメだよ」
マルコは、頬杖をついて、ナオコの目をのぞきこんだ。
小さくうなずいて、彼女は「ちょっと問題がありまして」と、話はじめた。
本日の出来事をとつとつと語るうちに、マルコの表情がだんだんとこわばっていった。ナオコは少し怖かったが、それでも最後まで話をした。
彼は、冷蔵庫の奥に腐った総菜を発見したときのような表情で、
「パワーハラスメントだね。完全に」
と、つぶやいた。
そして「それ、見せて」と手をちょいちょいと動かした。「その、縛られたっていう手首」
「あ、はい」
シャツの袖をちょっとめくると、すれて赤くなった痕がのぞいた。
「ひどい」
マルコが、眉をひそめた。そして、おもむろに手首をもちあげると、サッと顔をちかづけて、かすめるようなキスを落とした。
「は」ナオコの喉から、変な音がでた。
「かわいそうに。山田くんは、ほんとうに鬼畜だ」
ナオコは心底恥ずかしかった。彼のスキンシップは激しい。
みるみるうちに赤くなっていくナオコに気付いているのかいないのか、マルコは顔をしかめながら、
「手首をしばって仕事の妨害をするなんて、正直言って犯罪だよ。暴力だ。ぼくは君の証言と手首のあとによって、山田くんを離職においこめるよ」
と、語った。
その言葉に、照れで赤くなっていたほおが、すううと青ざめた。
「あの、わたし、そういうつもりでは……」
ふるふると首を横にふる。
自分は、山田を離職に追いこみたいわけではない。
「わかってる。でもね、これは中村くんが思う以上に、根深い話なんだよね」
「根深い?」
「山田くんは、けして悪い人間ではないよ。それは、ぼくもわかっている。長いつきあいだしね」
マルコと山田は、どちらも本社組で、顔見知りであると聞いていた。
二人は若かりしころより〈芋虫〉と研究者という違いこそあれど、HRAに貢献してきた者どうしなのだ。