血は水よりも濃い
次の月曜日、ナオコが一カ月ぶりに特殊警備部のオフィスに入ると、みんなから祝われた。
よく戻ってきたと背中を叩かれて、彼女はあらためて仕事をつづけられて良かったと心から思った。
「それにしても、また山田とバディなのか」
ケビンは彼女に同情の目をむけた。
「マルコさんに変えてくれるよう頼まなかったのか?」
他の〈芋虫〉たちも口々に気づかわしげな言葉を投げかけた。
ナオコは自分の机を整理しながら「そうだねえ」と、こめかみから汗をながした。実のところは再び彼とバディになれてうれしいのだが、それを言うと正気を失ったかと思われそうな雰囲気だ。
「いいじゃない、ナオコちゃんがいいんだから」
由紀恵がそっとフォローを入れた。感謝をこめた視線をむけると、彼女は「今週中に復帰祝いしましょうね」とにっこりした。
歓迎ムードが引いていき、みんながちらほらと出動しはじめたのを見計らって、ナオコはこっそりとオフィスを抜けだした。
玄関を出ると、警備員が「お疲れ様です」と敬礼をした。「いまから出動ですか?」
ナオコは視線を泳がせながら「そうなんです」と言い、そそくさと駐輪場へ歩いた。
自転車にまたがって門を出る。そっと後ろをふりかえると、警備員は退屈そうにあくびをしていた。
彼女は門の外に自転車を置き、そっと中に戻ると駐輪場の奥へ走った。物置の裏手にある穴をくぐり、周囲をみわたす。誰もいないようだ。
ほっと胸をなでおろし、マンホールを開いて下におりる。
暗くせまい道を歩きながら、山田はいるだろうかと考える。この場所を勝手に訪れていいものか分からなかったが、どうしても出動命令がかかる前に会っておきたかった。
扉は当然のごとく閉まっていたので、ノックをして「山田さん」と声をかけた。返事がない。
もう一度ノックをしてみようか、とこぶしを振り上げると扉が開いた。出てきた山田はシャツとスラックスというすがたではあるが、髪が乱れていた。眠っていたようだ。
山田は不機嫌そうにナオコをみとめると「入れ」と言ってひっこんだ。
とりあえず入れてもらえたことにホッとしながら、部屋に入った。
彼はベッドに腰かけ「なんの用だ」とぶっきらぼうにたずねた。
「取引について聞いていなかったことがあって」と口火をきる。
「あのとき、どれくらいの頻度で血が必要なのか聞いていなかったと思って……」
説明しながらも、彼の顔色の悪さが気にかかる。もしかすると眠っていたのではなく、一仕事終えたあと気を失っていたのではないかと思いあたり、ナオコはぞっとした。
「山田さん、さっきまで寝ていました?」
彼はぼうっと考えたあと「たぶんな」と答えた。
自分の予感が当たったことを確信して「気を失っていたんじゃなくて?」と責めるような口調で問いかける。
「ひどい顔していますよ……目の下のクマもすごいし」
「寝落ちしたからじゃないか?」
彼はたいして頭の働いていないような顔をしながら、枕元に置きっぱなしの文庫本を手にとった。
「ほら『ノルウェイの森』だ。まるで共感はできないが面白かった」
「うそつかないでください」
ため息をついて山田の横に座り、ぐいっと襟元をあける。
「ほら」
もはや羞恥心などはなかった。それよりもいまにも倒れそうな彼の様子が気にかかる。
彼はナオコの肌を見ると、顔をしかめて立ち上がった。
「そういうことをするな」と、おぼつかない足取りで小さなキッチンに向かう。
ナオコは後を追って立ちあがり「取引でしょう?」と迫った。
「なんで君が俺の吸血をうながすんだ……おかしいだろう」
彼はうっとうしそうに手で振り、やかんに火をかけた。
「だって、吸おうとしないから」
腰に手をあてて、彼をにらみつける。
「そんなボロボロのままで仕事されたんじゃ、わたしだって困ります。どうして吸うのを嫌がるんですか」
彼はナオコを見ないようにしながら「そういう節操のないことをするな」とぼやいた。
「節操とか、そういう問題じゃないです。わたしは山田さんに血を飲んでほしいんです」
山田は深いためいきをつきながら、シンクの横に置かれていたインスタントコーヒーをカップに入れ、お湯をそそいだ。香ばしいにおいがただよう。椅子に座ってコーヒーを一口飲むと、憮然としているナオコを「来い」と手招きした。
「吸う気になりましたか?」
ナオコはぱっと顔を明るくして近寄った。
彼はケースから消毒液とガーゼ、そして小さなカッターをとりだし、首元を一瞥すると「傷は?」とつぶやいた。
「あ、もうふさがりました」
彼が吸いやすいようにあわてて体をかたむける。しかし山田は「そこに座れ」とナオコをベッドに座らせ、自分は医者のようにカッターを消毒しはじめた。
「あの」と声をかける。
「腕を出せ。どちらのでも構わん」
言われるがままに、腕まくりをした右腕をさしだす。
「えっと、腕から吸うんですか?」
「そうだが。本当なら注射器でも使いたいところだが、そうするとエネルギーがこぼれて使い物にならんから、しかたがない」
「常駐警備部では瓶に移しても大丈夫でしたけど……」
「〈焦点〉に与えるのはエネルギーそのものではなく、正反対のベクトルを持つエネルギーの衝撃だからな。人体からこぼれて時間が経っていても問題はない」
彼はむすっとした表情をして「なぜそんなに乗り気なのか分からない」とぼやいた。
「だって山田さん、いまにも死にそうな顔していますよ」と眉尻をさげる。
「そりゃあ、一刻もはやく回復してもらうために、吸ってもらいたくもなります」
「分からんな」
彼は不服そうにしながらも、左手でナオコの腕を支えると、一ミリほど出した刃を彼女の右肘裏の上あたりに軽く押しつけた。
針でさされたような痛みが走り、ぷくりと赤い球が浮き出る。すかさず彼が口をつけた。
ナオコは勝手に高鳴る心臓の音を落ちつかせようと、唇をかんで耐えた。なんといえばいいものか、首元よりも肌が薄いぶん、舌の感触をなまなましく感じる。
彼女は山田のつむじを見ながら、うなるのを我慢していたが、ふと首をかしげた。
山田が顔をあげて、口元を軽くぬぐう。不思議そうにしている彼女に「どうした」とほんの少し不安そうにたずねる。
「もしかして痛かったのか」
「あ、いえ、違うんですけれど……」
じーっと山田の髪の毛を観察する。黒々としていて固そうな髪の毛だ。
「……精神分離機の副作用って、白髪になるとか、そういうのもあるんですか?」
吸血している際に気付いたのだが、彼の髪の根元から数ミリほど色が抜けていた。過度なストレスによって、彼が白髪になりつつあるのではないか、と顔を青ざめる。
山田はしばらく彼女を途方もないバカを見るような目で見つめたあと「……そうかもな」とだけつぶやいた。
「これ以上うるさくされると敵わないから言っておくが。吸血の回数は週に一度で十分だ。そうだな、月曜日、仕事が始まるまえに来い」
「……それ以外は来るなってことですよね?」
ナオコは小さくたずねた。
彼が今日のように倒れていないか心配なので、様子を見にいきたいと考えていたのだが。
「ここに来てどうするつもりなんだ」
「どうもしないですけど……」
ナオコは唇をとがらせて「でも今日みたいになっていないとも限らないじゃないですか」と言った。
「心配なんです。山田さん、目を離した瞬間に死んじゃいそうで」
「それは君のほうだろう」と、彼は心外そうにした。
「バディに戻れたからいいものを、もし違う人間と組むことになっていたら、どうしようかと思ったくらいだ」
「え?」
彼は「しまった」と言いたげな表情をしている。
「……山田さん、いまわたしとバディに戻れてよかったって」
つぶやいた言葉を、山田が「そんなことは言っていない」と食い気味に止める。
「ただ勝手に死なれると困るという話をしたかっただけだ」
ナオコはぽかんとしたあとに、なんだかうれしくなりくすくすと笑った。
山田はもはやなにを言っても無駄だとあきらめたのか黙ってしまった。