わんわん
それから2週間後の月曜日、ナオコの特殊警備部への復帰が決定した。代々木公園での戦闘が決定打になったらしく、携帯にマルコから連絡が入っていたのだ。
連絡をもらってうれしかったが、その時の気持ちとは裏腹に今の彼女は途方にくれていた。
マルコの執務室のまえで立ちすくみ、かれこれ2分ほどノックを躊躇している。
復帰の前に話をしたいと呼び出されたのだが、彼に言わなければならないことがあるのだ。
ナオコは意を決して扉をたたいた。
すぐに「入って」と声がして、扉を開く。マルコは待ちかねていたように彼女を呼びよせ、ソファに座らせた。
「いよいよ復帰だけど、大丈夫そう?」
「はい、大丈夫です」
緊張を隠しながらうなずく。
「そっか、よかった。いろいろ心配はしていたんだけど、足の調子もだいぶ戻ってきたみたいだもんね」
マルコは優しいほほえみの内に、一抹の心配をのぞかせた。
「それでね、言わなきゃいけないことがあるんだけど……」
ハッとして「じつは、わたしも」と言う。マルコは目を丸くして「どうしたの?」とたずねた。
深呼吸して、落ちつきを取り戻そうとする。
ナオコは姿勢をただすと「山田さんの精神分離機使用超過を調査する件なんですが」と口をひらいた。
「すみません、わたしだけでは力不足で……なにもわかりませんでした」
彼女は「申し訳ありません」と頭を深くさげた。
これは山田との取引の結果だった。
あの日、彼は取引の内容に精神分離機の使用超過や副作用の件は口外無用である、という条件を追加した。
「これが周囲に知れることは、デメリットしか会社にもたらさない」との主張だった。
「俺が隠れて〈虚像〉を始末していると知れると、他の〈芋虫〉たちの意欲やHRAへの疑惑を高め、ひいてはマルコのトップとしての立場も危うくしかねない。彼自身も察してはいるだろうが、本社が隠し事をしているとあきらかになれば、対処せざるをえない問題になる」
「あきらかにならなければ、対処もしなくていいってことですか? でもマルコさんは……」
マルコが山田に抱いている危機感に釈明をするべきなのでは、と考える。
山田はその考えを先読みし「彼は俺がHRAにたいして害をなすんじゃないか、と考えているんだろう? だがもうそんな余裕はないはずだ」と述べた。
「なんでですか?」
「アルフレッドの体調がよくないからな。人手不足もそうだが、この状況で俺の問題まで考える余裕はないだろう」
ナオコは困惑した。彼の言う通りだと思ったが、マルコの疑惑を頭から否定することもできない。
口を閉ざしていてもなにも解決しない、と顔をあげ「山田さん」と声をかける。
「マルコさんから、山田さんのお父様がHRAにいたってうかがいました。それは本当ですか?」
彼女の緊張した口ぶりに、山田は苦笑した。
「……父親が殺されたから、俺がHRAを恨んでいるのでは、とマルコは懸念しているんだろう?」
ナオコはおとなしくうなずいた。
「でも、違うんですよね?」
マルコは山田がHRAのために身を粉にして働いていると知らないからそう思うのだろう。
しかし当の本人は「違わないな」とあっさり答えた。
「こんな会社、さっさと潰れるべきだと考えている」
「え?」
ナオコはそれ以上のことを山田から聞くことはできなかった。取引の話をしてから、彼は距離感を測りかねているようなぎこちない対応になっており、いつ血を提供するかなどの取引の詳細も決められなかった。
ただそれ以上に悩みの種となったのは、マルコに仕事の失敗をどう報告するかということだった。
そこに呼び出しがかかり、ナオコは覚悟を決めた。結局のところ自分に調子よく騙すなんて芸当はできないのだから、いさぎよく任務の失敗を告げるしかないと思ったのだ。
そういうわけで、彼女はマルコが口を開くまで頭を下げつづけた。
投げかけられたのは「よかった」という安堵の言葉だった。
「顔、あげて。ナオコくん」
おだやかな声に、ゆっくり面をあげる。
マルコはほおを指でかいて「じつのところ、早く君がそう言ってくれないかなって思っていたんだ」と、情けなさをにじませながら話した。
「本当はよくないんだけどね……いま山田くんが何らかの不正をしていても、ぼくには彼を罰して、ただでさえ少ない〈芋虫〉を減らすことはできないからさ」
「……そうですよね」
山田の言ったとおりになって安心する気持ちとともに、彼にうそをついたことを申し訳なく思った。
マルコは彼女の浮かない表情を見て「でも」と明るい声を出した。
「第二目標は達成できたみたいだね。山田くんとすこしは仲良くなれたんじゃない?」
優しくたずねる彼に、しばらく考えてから「はい」とうなずく。
「たぶん、前よりは山田さんのことが分かるようになったと思います」
「そうかい。彼とはうまくやっていけそう?」
ナオコはすぐに返答できなかった。あの日以来山田と会っていないが、取引のことを考えるたびに居心地が悪くなる。距離が縮まったのは確かなのだが、彼にどういう顔をして会うべきかは、まだ分からなかった。
「やっていけると思います……たぶん」
「たぶん?」
マルコは首をひねって笑った。
「あ、ちがいます。絶対です」
ナオコは両手をふって、あわてて弁解をした。
「たぶんって言ったのは、その、なんというか」
ほおに熱を感じながら「とにかく大丈夫だと思います。うまくやります」としどろもどろに言う。
ナオコは胸の中に以前とは違う気持ちが渦巻いていると気づかざるをえなかった。どうしようもなく山田のことが気になるし、彼がいま体調を崩していないか心配になるのだ。
マルコは彼女の慌てふためいた様子に、なんともいえない表情をうかべた。
「……山田くんと、なんかあった?」
「いえ、なにもないですよ!」
ぎょっとして、思わず大声を出した。冷や汗が背中を伝う。こんな言い方では、言外になにかがあったと知らせたいように聞こえてしまう。