君の名前は女
「べつに君の血でなくとも構わないとは思わないか」
彼がため息交じりに言ったので、すかさず「思いません」と言い返す。
「だって山田さん、女性の首元なんて噛みつこうと思えばいくらだって噛みつけるでしょう? なのに弱っているんですから、誰の血も吸っていないんですよね」
二人の間にぎこちない沈黙がおちた。
この上なく真面目に発言したつもりだったが、彼がなにかに耐えるように片手で顔を覆っているので、自分のセキララにすぎる言い回しに気づく。
「そうですよね? あんなふうに女性を手のひらで転がしているわけですし、血くらい……」と、せきばらいをする。
すると彼は「よその女の血くらい、いくらでも吸ってやる」と言い放ち、そっぽを向いた。
「君の血なんて二度と吸うものか」
「でも、このままだと山田さんが死んじゃいます!」
言わないようにしていた本心が飛び出て、口元をおさえる。山田が目を見張った。
実のところ取引に彼が応じるなどとは思っていなかった。それでも提案をしたのは、自分の進退よりも彼の体が心配だったのだ。
ナオコが不安だったのは、彼が自身の体など意に介していないように感じられたことだ。
「……仮に俺が死ぬのなら、その前に職場を離れるのが賢明だとは思わないか?」
静かな問いかけに不安感が増す。脳裏に彼が膝をついた姿がよぎる。
「思いません、そんなこと」
強い口調で否定する。
「なんで血、吸っていないんですか」
彼は答えをくれなかった。
まだ自分に向きあってくれていないのだ、と絶望的な気分になる。それでも諦めたくなくて「いやです」とつぶやく。
「山田さんが死んじゃうかもしれないのに、ここを離れるなんていやです」
真正面から見ると、彼はわずかな困惑を浮かべた。
「意味が分からない。俺がどうなろうが、君に関係ないことだろう」
彼は椅子から立ちあがると「そろそろ行け」と、ナオコを追いだそうとした。
地下室の照明が山田の肌を白く浮きあがらせた。その理由に、頭の中心から血が落ちていくような感覚をおぼえる。
ナオコはにわかにベッドから腰をあげ、彼の胸にタックルをしかけた。よろめいたところを、床に押し倒す。
首元に貼られた真新しいガーゼを引きちぎると、彼女は痛みに顔をしかめながら髪をかきわけた。
山田は青ざめて、馬乗りになったナオコをはねのけようとした。しかし首元をさらけ出している姿をみて目の色が変わる。
ここぞとばかりに上体を倒し、傷口をその口元に近づけた。肩を激しくつかまれ、頭を抑えつけられる。肌に飢えた吐息を感じた直後、もう一度突き破ってくる歯の固さを感じた。目をつむって堪えていると、流れ出すものを舌がすくいとった。
ふっと力が抜けて、乱暴に突き飛ばされた。ナオコはベッドの縁に背中を打ちつけて小さな悲鳴をあげた。床から飛びのいた山田は、警戒した野生動物のように壁に張りつき呆然としている。
ナオコはそんな様子をみて、涙目になりながらも笑った。
「やっぱり、苦しいんじゃないですか」
山田はその場にずるずると座りこんで、近づいてきたナオコを怖がるように見た。
「死んでほしくないんです」
彼女ははっきりと口に出した。
「元、かもしれないけれど、相棒じゃないですか。あなたが死にそうになっているのに、黙って職場を辞めるなんてできるわけないです」
彼と視線を合わせるようにしゃがみこみ、首元に指をあてた。まだ血が止まっていないのか、人差し指と中指に赤いものがついた。
「俺に迷惑かけるなって、さんざん言っていましたよね……やっとお返しできそうなので、させてください。関係ないなんて言わないで」
毅然としていた彼女だったが、声はどんどん小さくなっていった。なんだか泣きそうだったのだ。
ふと山田は肩の力をぬいて「君は」とつぶやいた。
「君は、女なんだな」と、口元に笑みをうかべる。
「……知らなかったんですか」
目尻をぬぐいながら、小さくたずねた。
「知っていたが、知らなかった。すまない」
「なんで謝るんですか」
「なぜだろうな」
山田は憑き物が落ちたような顔で「そうなんだな」と独り言をいった。
「俺は、ずっと君は、子供のようなものだと思っていた」
「もうすぐ26歳になるのに?」
不満をあらわにするも、山田は「俺からしたら、君なんて4歳にも手のとどかない子供のようだ」と言葉をつづける。
「それは言い過ぎじゃ」と、唇をとがらせる。そんな年ごろでは幼いというよりも、ほぼ赤ん坊に近い。
「いや、俺は……ずっとそう思っていたんだ」
山田は屈託なく笑うと、ゆっくり立ちあがった。不意に右手をとられ、口元に近づけられた。ナオコは肩をこわばらせたが抵抗はしなかった。
爪先は唇の寸前で止まった。彼の目は伏せられており、その意図をくみ取ることはできない。
何カ月かまえ、マルコが手にキスをしたことを思いだした。あのとき山田は自分に忠告をした。そうだった。だが良い男ではないのは、彼も同じだ。
こんなにも心臓がうるさいのだから。
「取引に応じよう」
山田は静かに口をひらいた。
「俺は君の血をもらう。その代わり、君がこの会社に居ることを許す」
「……いいんですか?」
ナオコは信じられない気持ちで聞き返した。山田はなにが面白いのか、くつくつ笑うと「かまわない」と言った。
「君は、ひとりの女性なんだろう? なら、俺がどうこう言うことはできない」
急に手のひらを返された理由が分からなかったが、彼が応じるつもりになったことに光明がさした気持ちになる。「ありがとうございます」と頭を下げた。
「えっと、うれしいです。山田さんが、こんな形でも許してくれて」
ナオコはとつとつと、だがしっかりと伝えた。彼が初めて自分を見てくれたような気がして、思いがけず胸がいっぱいになった。
「その、さっきタックルしたのは申し訳なかったですけど……」
山田は呆れた笑みをうかべて「そうだな」とうなずいた。
「でも、ああ。安心したよ」
「……タックルで山田さんを倒せるくらい、強くなったから?」
「違うに決まっているだろう」
彼は的外れな返事に苦笑しながら、どこか憧憬じみた目つきをした。
「中村ナオコは、こういう人間なんだと知ったからだな」