名前がなかったころの君
「マルコさんは精神分離機の後続機を研究するために、日本支社に来たって言っていましたけど。それは建前だったってことですか」
「建前ではない。ただ、アルフレッドは本社にマルコを置いておきたくなかったんだ」
「どうしてですか?」
山田は切ったガーゼを傷口に当てて、上からテープを貼った。保健の先生みたいに手慣れているな、とおとなしく身を任せていると「それは、俺にも分からない」とそっけなく答えられた。
「アルフレッドの真意を知っている人間なんてHRAにだれ一人としていない。彼が死ぬまえには、一人くらいは分かるようになっているといいがな」
彼の指先がガーゼから離れ「よし」と、つぶやく。
「他に聞きたいことは?」
この話は終わりとばかりに言われ、開きかけていた扉が静かにしまったように思えた。本社のことは話したくないようだ。
追及するのをやめて別のことを聞こうか、とナオコは考えていたが、マルコとの会話の際に知ったことを思いだして、それで頭がいっぱいになってしまった。山田の父親のことだ。
「あの、マルコさんに聞いたんですけれど」
口に出してから、ためらう。デリケートな話だし、山田を傷つける可能性がある。
彼は言いづらそうにしている彼女をみながら、椅子に深く腰かけた。自分の言葉を待ってくれている姿をみて、飯田のアドバイスを思いだす。
彼が自分に向き合っていないと感じるならば、自分がとる行動は違うはずなのだ。
「……わたし、孤児だったって山田さんに話したことありましたっけ?」
山田は急に変わった話題に表情を変えた。そして「いや」と視線をおとす。
「君の口からは初めてきいた」
「HRAに居る人のなかでは、珍しくもなんともないですもんね……5歳のときに今の両親のところに引き取られたんです」
山田はじっと彼女を見守っている。
「二人ともとっても頭がよくて、わたしを一人前の人間にしようって頑張ってくれました。いろんな場所に連れていってもらって、たくさん勉強しなさいって言ってくれて」
「そうだろうな」
山田は肘掛にひじをついて「箱入り娘という札を首からかけているように見える」と冗談を口にした。
ナオコは「箱入りというほどでもないですけれど。でも、期待には応えられなかったです」と苦笑した。
「文字が読めなくて。小学5年生くらいまでは、ひらがなもダメでした。そのせいで周りから浮いていて、勉強も嫌になっちゃいました。期待にこたえられない自分が嫌いで、それで、そういう時に父親が映画を教えてくれたんです。話し言葉なら分かったから、それで初めて、なにかを知るのが楽しいって思うようになりました」
初めて観た映画は父親が大好きな『グリーン・マイル』だった。小学生の彼女には理解できないうえに恐ろしいシーンの連続で、途中途中手で顔面をおおっていた記憶がある。それでも最後まで物語を追うことができたのは、あれが初めてだった。ラストシーンがいつまでも頭のなかにあって、それから映画を観るようになったのだ。
山田はナオコを穴があくほど見つめている。
「今は?」とポツリとたずねられたので、ナオコは「もう読み書きはできますよ。知っているでしょう?」と笑った。
「苦手なことは嫌というほど」
山田は肩をすくめたが、なんとなく固い表情をしている。書類仕事やメールでのやり取りの際に、文章が下手であるとの揶揄が頻繁だったので、それについて考えているのかもしれない。
「君が仕事をやめなかったのは、ご両親が原因か?」
「ここに就職が決まって、二人とも喜んでくれたので」と、うなずく。
「こんな会社でも?」
山田は意味深長につぶやく。
「実態はともかくとして、たいして有名でもない警備会社に勤めることを親は喜ぶものなのか?」
「わたしが独り立ちできたことが、うれしかったんだと思います」
ナオコはほおを指でかいた。
「やっぱり心配かけたと思うので……わたしは頭もよくないし、ちゃんと社会でやっていけるか不安だったのかと」
山田はなにか言いたげにしたあと、深いためいきをついて「そういう自虐はやめろ」とつぶやいた。
いきなり鋭くなったセリフに、彼がいつもの調子をとりもどして厳しいことを言うのかと体を縮こませる。しかし続いたのは、予想外のセリフだった。
「君がきちんと育てられたのは、だれが見ても分かることだ。そういう風に育ててもらっておいて、自分を貶めるのはやめろ」
一瞬なにを言っているのか分からなかった。ぽかんとしている彼女に「つまりだな」と、少しだけ語気を荒げる。
「ご両親は君がこんなどうしようもない職場を辞めたところでなにも思いやしない。それよりも娘が危険な仕事に就いていることのほうが、よっぽど心配なはずだ」
「……どうしようもない職場なんかじゃないです」
「二回も死にかけておいて、なぜそう思える? 今日なんて、あの時少しでも遅れていたら」
静かな怒りを感じて、彼の手が震えていたことを思いだす。
「だれからの助けも得られなければ、君はとっくのとうに死んでいる。分かっているのか?」
「山田さんの助けがあったから、今こうしていられることは分かっています」
顔をあげて、山田を見つめた。彼はすぐに視線をそらし「分かっていない」と吐き捨てた。
「助けてもらう前提で仕事をするくらいなら、すぐに辞めるべきだと前から言っているだろう。ご両親だってこんな仕事をしてほしいなんて、少しも思ってはいないはずだ」
「でも、わたしは」
ナオコは自分の気持ちを伝えようと身をのりだした。しかし山田の「黙れ」との言葉に止まる。
「もう助けてはやれないんだ。さっさと別の職を探せ」
突き放すような言い方に、再び彼が自分の扉をしめたことを知った。
だからなんだ。ナオコは深呼吸して、彼をきっとにらんだ。
「もう、助けてなんてもらいません……山田さんなんて、あてになりませんから」
山田が片方の眉をつりあげる。
「精神分離機の副作用、ひどいんですよね? さっき見るまでは気づきませんでしたけど、これまでも何回か立っていられないほど、弱っていたときがありましたよね? そんな人に助けてもらおうなんて、一切思っていません」
ナオコは断固とした口調で「取引しませんか」と言った。
「さっき、わたしの首に噛みついたのは、血を吸うためですね?」
「……そうだな」
彼はしばらく答えたくなさそうにしていたが、諦めたように言った。
「さすがに知っていたか」
「わたし、常駐警備部だった時間のほうが長いんですよ? 知ってます」
ナオコはしてやったり、という気分で笑った。
常駐警備部が持ち歩いている小瓶の中身は、濾過した血液だ。
〈鏡面〉内にある〈焦点〉を破壊するためには、むこうの世界から流れこんでくるエネルギーを相殺する必要がある。そのときに必要なのが、精神エネルギーを有する人間の血液である。
「精神分離機の副作用は、肉体と精神のエネルギーバランスが崩れると起こるって聞きました。そうすると、副作用を他の人間のエネルギーで抑えることも難しくなさそう……ですよね?」
山田は口をつぐんだ。ナオコがなにを言いたいのか分かってしまったのだろう。
「わたしの血、どれだけ吸っても構わないので、その代わり、HRAに居ることを許してください」
ナオコは真面目な顔で、頭をさげた。
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