君の名前
ナオコは山田の後をついていった。彼は彼女が帰らないことを気にしている様子だったが、なにも言わないままだった。そうしているうちに、空が紺色にしずむ頃にはHRAの社屋にたどりついてしまった。ナオコは、彼がまた仕事に戻るのだろうかと危惧した。
「ダメですよ、さっき倒れたばかりなのに」
山田は奇妙な表情をした。そして「帰らないのか?」とたずねた。
「いや、帰りますけど……山田さんが大丈夫かなって思って」
「おせっかいだな」
彼はナオコの首に何度目かしれない視線を向けると「まあ、いい。ついてこい」と歩きはじめた。
山田は駐輪場に向かうと、さらに奥にある小さな物置へと歩を進めた。掃除用具と庭の手入れのための道具しか入っていない場所だ。
彼は物置と生垣のわずかな隙間をのぞきこんで、ナオコを手招いた。みると、生垣になんとか人一人が通れるほどの穴が開いている。彼は体をかがめて、穴の中に消えていく。あわてて後を追うと、その先には公園のなりかけのような空間があった。古ぼけた水飲み場と花壇があり、遊具を置くための吹きっさらしの地面がさみしい。
彼は水飲み場の後ろに近づくと、慣れた様子でマンホールを持ちあげた。
「入れ」
「ええ……なんで」
山田は黙って首をかしげナオコを見つめた。その視線にともすれば一種の甘えのようなものを感じとって「分かりましたよ」と肩をすぼめた。彼が自分を信用してくれている気がしてしまったのだ。
マンホールの中に足をいれ、はしごをつかみ、慎重に降りていく。意外にも湿り気や臭いなどはなく、からりとして、ただ静かだった。8メートルほど降下すると地面についた。がたん、と上からの光が消えて、ナオコの隣に音もなく山田が降りたつ。
乾ききった下水道を歩いていくと、突きあたりに放置されて久しそうなボロボロの扉があった。
山田は鍵をあけて、扉を開いた。
「ここ、もしかして」
彼は部屋のなかに入ると振りかえり「行くところは他にもあると言っただろう」と、いつだったかの会話の真相を、にこりともせず答えた。
「君に俺の生真面目さを披露できる機会ができて、なによりだな」
ナオコは部屋の扉をくぐってから、ぽかんと中を見渡して、思いだしたかのように「失礼します」と扉をしめた。
コンクリートが打ちっぱなしの部屋は雰囲気こそスパイ映画に出てくる秘密基地のようだったが、どこか生活感も感じた。ベッドのシーツにはしわが寄っているし、その横にある本棚には文庫本が乱雑に置かれている。
そのラインナップについつい視線を走らせて、思わず「山田さんって宮沢賢治とか読むんですね」と言ってしまった。
『銀河鉄道の夜』の他にも川端康成だ夏目漱石だ、はては最近直木賞を獲った今時の小説家の本まで並んでいる。彼の本棚に専門書よりも、そういった物語が並んでいることがナオコには意外に感じられた。
「悪いか? 言っておくが、俺には教養なんてものはないぞ」
山田はジャケットを脱ぎすてながら、どこか気まずそうに言った。
「ほら、俺がなにを読んでいるかなんてどうでもいいだろう。適当なところに座れ」
ナオコにとって彼がなにを読んでいるか、ということは結構な関心ごとだったのだが、おとなしくベッドのふちに座った。というのも、ソファだテーブルだといった家具が部屋のなかになかったのだ。あるのはパソコンとよく分からない電子機器が積まれたデスク、一人掛けのチェアーだけだ。
彼はそこに腰かけてプラスチックのケースから消毒液と脱脂綿をとりだし、彼女の首に視線をむけた。ナオコが髪の毛を持ちあげると、椅子ごと彼女に近寄って傷の消毒をはじめる。
「……『見られたからには仕方がない』というセリフは、なにが出典だ?」
「出展は分からないですけれど……悪役のテンプレートですよね」
「テンプレートね。それじゃあ、それだな。見られたからには仕方がない」
山田は面白くもなさそうに「なにから聞きたい?」とたずねた。
ナオコは実感のこもらない驚きを感じた。あの山田が素直になにかを教えてくれようとしているなんて、天変地異の前ぶれと言われても差し支えない。
思わず「いいんですか?」と確認すると、彼は悩ましげに眉をひそめたが、ふいとため息をついた。
「君が覚えていたいと言ったんじゃないか」
その言葉はいつも冷徹に振りかざしている論理的な物言いというよりも、あどけない悔しさを感じさせるものだった。山田は「忘れたいのか?」ともう一度たずねる。
「それならそうと言え」
彼の戸惑いを感じたナオコは「覚えていたいです」と食い気味に言った。
「聞きたいことがいっぱいあるんです……えっと、そうですね」
この機会を逃したくない、と頭を回転させる。
「……なんでこんなところに住んでいるんですか?」
そう質問すると、山田はよりにもよってその質問をするのかと呆れた顔をしたが、素直に口を開いた。
「日本支社が立ち上げられたとき、地下に研究施設を造る計画が持ちあがったんだ。この部屋はその名残だな。マルコが実務につく事になって計画が頓挫したから、機材を置くためだけの部屋が残った」
「それじゃあ、前に服を貸してくれた部屋は」
「あそこは書類上の家だ。ほとんど帰らない」
ナオコは山田の「同棲している設定だったと忘れていた」との発言を思いだし、彼をあらためてどうしようもない男だと思ったが、同時に納得もしてしまった。彼にとって本当の住処は、この地下室のほうなのだろう。
「じゃあマルコさんは、この部屋を知らないんですね」
「さあな。感づいてはいるだろうが、深入りはしてこない。彼だって本社が完全に自分を信頼しているわけではないと分かっているはずだ……そもそも、こんな辺鄙な土地に俺と送られた時点で察してはいただろう」
山田は汚れのついた脱脂綿を捨てると、ガーゼをとりだした。
「実質的には左遷だ。それを分かっているから、彼はああも必死だし、アルフレッドはマルコをアメリカに返さない」
ナオコはこのあいだマルコが育ての親について語ったときの表情を思いだして、やるせない気持ちになった。