ろうそくを吹き消して、すっかり忘れて。
「心配いらない。いつものことだ」
「いつものことって……」
彼の首筋を確認すると、痣は消えていた。
「もしかして、精神分離機の使用超過が原因ですか」
マルコから聞いた話を思いだし、ナオコは後悔した。これまで山田の様子がおかしかった場面は何度かあったはずだ。自分のことばかりにかまけて、彼が体調を崩していることなんて気にもかけていなかった。
ナオコは悔しくて「本社の人はどうして山田さんにここまでさせるんですか」と言った。
「山田さんだけが、こんなことをしているなんておかしいです。人手が足りていなくても、みんなで分担すれば」
「言っただろう。HRAは、人間に人間を殺させない」
山田の言葉をナオコは理解できなかった。悔しさと悲しさで胸がいっぱいになって「山田さんだって人間でしょう?」と言う。
彼は戸惑ったように「なぜ泣くんだ」とたずねた。
ナオコはほおを指でぬぐって、顔をふせた。自分勝手に泣いてどうするつもりなんだ。そう思っても、涙はこぼれるばかりだ。
「……だって、山田さんが死んじゃうかと思ったから」
彼が苦しんでいるのに、なにもできなかった恐怖が体を覆っている。普段強い彼があんなに辛い思いをしている姿なんて、もう二度と見たくなかった。
「このこと、マルコさんに話しましょう? きっとわかってくれますし、そしたら山田さんだけが負荷を背負う必要なんて」
「無理だ」と山田が言葉をさえぎったが、ナオコは「本社命令だからですか」と食ってかかった。
「そんなの、あなたの体に比べればどうでもいいことじゃないですか!」
山田は剣幕に気圧されたような顔をしたが、すぐに諦めたように「これはアルフレッドの指示だ。だから、マルコには伝えられん」と言った。
「アルフレッドって……」
ナオコは絶句してしまった。アルフレッドの指示で、この事実が隠されているのだとしたならば、そこにマルコへの信頼を見いだすことはできない。
育ての親で最も尊敬している人物から、隠し事をされていることをマルコが知ったならば、彼がどんなに悲しむことか。
「……血が止まったな。行くか」と、山田が立ちあがった。
いまだに顔色は良くないが〈鏡面〉のなかにずっと居てもしかたがない。
山田は自身の携帯を操作して、頭上をみあげた。どうやら彼だけで〈鏡面〉に入るときは、携帯を使って管理をしているようだった。
外に出ると、夕日が沈みかかっていた。まぶしさに目を細めて、山田をうかがった。オレンジ色の光のもとでは、彼の青白い肌が元に戻っているように見えた。
山田が歩きはじめたので、その後をついていく。しばらく黙って歩きつづけ「どこに行くんですか」とたずねた。
「はやく横になった方がいいですよ。まだ顔色が悪いですから」
「ああ……君も家に帰ったほうがいい」
そう言いながらも、彼はいつものように辛辣な言葉をはいたり、無理やり追い払おうとはしなかった。なのでナオコは彼を案ずる気持ちから、その後を歩いていった。
ナオコはふと、この瞬間に覚えがあるような気がした。
夕日が道のまんなかに落ちていく。住宅街は静かでひっそりとしていて、まるで世界から取り残されたみたいだった。山田と自分の影が、アスファルトに長くのびている。
「山田さん」
彼がふりむいた。険のとれている彼に心のどこかをかきむしられる。首元がうずき、熱がうまれ、心臓にそっと指を這わせる。
「どうした?」
彼は心配そうにしている。
ああ、わたしは。ナオコはくらくらする頭のなかで、ひとつだけ確かなことを思った。
足を速めて、山田のすこし後ろから、横にならんだ。彼は不思議そうに彼女の行動を見守っていたが、ふと目を細めた。
「手」と彼がつぶやく。
「痛かったよな、悪かった」
ああ、それだけじゃない。殴ったんだ、ほおを。そう続けた彼はべつの誰かのようで、それでも、この人が山田志保なんだとナオコには分かっていた。
「いや、それどころじゃないな。首が……」
山田は申し訳なさそうな顔をしている。
普段はそんなこと言わないくせに、とナオコは思った。だけど胸がいっぱいになってどうしようもなくて「大丈夫です」と彼の腕にふれた。
「大丈夫ですから、なにも心配しないで」
わたしは、この人を守りたいんだ。ナオコはそう心から思った。この不器用で心配性で、いまにも死んでしまいそうな彼を守らなければいけない。なぜだかは、分からない。
ただ、そうしなければいけないのだと、夕日にむかって歩を進めるたびに思うのだ。