息がつまるくらい幸せなパーティをして
ナオコは茫然自失のまま「ずっと、こんなことしていたんですか」と言った。
「人間まで進化した〈虚像〉は、ぜんぶ……」
「本社命令だ。そういう行いを〈芋虫〉にさせると、パフォーマンスが落ちるという結果が出ている」
「じゃあ異常種も」
山田が上野公園にて、自分だけで仕事をすると頑なだったと思いだす。
「本来なら日本支社の〈芋虫〉には、可能なかぎり対処させない。最近は発生が頻繁なせいで、手が回っていないが」
「なんでマルコさんには、知らされていないんですか?」と当然の疑問をぶつけると、山田は「彼は飾りだからな」と冷たく言いはなった。
「あくまでも研究者だ。そして研究者は問題点さえ明らかになれば、問題の本質なんて考える必要はない。理論だけあれば、現実に俺たちがなにと戦っているのかなんて知る必要はない」
「でも、マルコさんは」
ナオコは口をひらいたが、その先を言ってもどうしようもないと思い、代わりに「山田さんが日本支社に来たのは、これが理由ですか」とたずねた。
山田はなにも言わなかった。
無言を肯定だと考えたナオコは「なんで」ともらして、うつむいた。なんで言ってくれなかったのか。そんなことが言えるはずはなかった。山田が自分の知らないところで本社からの任務をしていたからといって、それを話すはずがない。
彼はその場にくぎ付けになっているナオコを一瞥すると「覚えていたいか?」とたずねた。質問の意図が分からず、ナオコは顔をあげた。
「君たちが人型や異常種に対処しない理由は、ひとえに君たちがそういう立場だからだ。知っていても得はしない」
ナオコの目の前に携帯がかかげられた。まだ画面は黒い。
「忘れたほうが良いこともある」
ナオコは山田を見つめた。そして、震える体をおさえつけて、にらみつける。
「いやです」
山田は表情を変えなかった。
「忘れたくありません……わたしは、覚えています」
ナオコは深呼吸をして、こぶしをぎゅっと握った。
「だって山田さんはずっと戦っているんでしょう。覚えているんでしょう。なのに、わたしだけ逃げるなんて不公平です」
山田は動揺したように目を見開いた。そして「忘れることは逃げることじゃない」と視線をおとした。
「今日みたことは君の妨げにはなっても、背中を押してくれはしない……」
ナオコは山田が携帯のボタンを押すような気がして、とっさに目をつむった。
しかし、予想していた閃光は訪れなかった。かわりにくぐもった声が聞こえ、なにかが地面に落ちる音がした。
目をひらいて飛びこんできた光景に、血の気がひいた。
「山田さん!?」
彼はひざを地面につき、右手で首をつかんでいた。上体を支えている手が、コンクリートをひっかいている。
横にしゃがみこみ「大丈夫ですか」と声をかけるも、ひきつった喘ぎ声だけしか聞こえない。とっさに山田の指の下にあるものをみて、愕然とした。
うなじの真下、普段はシャツで隠れている部分の皮膚から、灰色のつるのようなものが痣になって浮きあがっていた。それは徐々に伸びながら、山田の指先まで到達しようとしている。
ナオコは救護車を呼ぼうと携帯をとりだした。その手を山田がつかみ、すぐに離す。
「頼む」と、かすれた声がささやく。携帯と山田を見比べて、唇を噛みしめながらも携帯をしまった。
どうすればよいのか分からないまま、彼の背中をなぜる。彼の爪が首に食いこんでいくのをみて、思わず両手ではぎとり抑えこんだ。代わりにナオコの手に爪が食いこんでいく。その痛みの強さが彼の苦しさをあらわしているようで、必死にその手をつかんだままでいた。
山田は苦しそうな呼吸をつづけたまま、ナオコとつながれた手をみた。
爪が甲にささり、血がにじんでいく。
一瞬のことだった。
視界が回転し、首元に激痛が走った。悲鳴すら出せないまま、ナオコは目を白黒させた。体を強く抱きしめられている。頭からつま先まで、すべてが心臓になったかのような錯覚に、体から力が抜けていく。首元だけが火をつけられたかのように熱く、そこを冷たいものがなぞる。
地面に押し倒されて数秒後、首元から痛みがぬけていく。荒い呼吸が耳元で聞こえた。
山田は呆然自失とした表情で、自分の行いの痕を凝視している。
「や、やまださん」
ナオコはずきずきとした痛みをおぼえながらも、衝撃をうけている山田のほうが心配で、その腕にふれた。呼吸はもとに戻ったようだが、彼はさきほどよりもショックを受けているように見えた。
「だいじょうぶですか……?」
彼は信じられないといった表情で「すまない」とつぶやいた。ゆらりと立ちあがり、いつかのように彼女の首元を止血しはじめる。
ナオコは上体を起こして、山田の様子をうかがった。顔面蒼白になっているが、先程のように苦しんではいない。
「そんなに深くないみたいなので、あの、大丈夫ですよ」
首はたしかに痛かったが、少し切れただけのように思えた。血管がどくどくと鳴ったりはしていないし、しょせん噛みつかれただけだ。
ナオコは内心で首をひねった。
噛みつかれた。そうか、自分はいま、山田に噛まれたのか。
彼女のほおが、みるみるうちに真っ赤にそまっていった。とっさに首元を右手でおさえ、後ずさりをする。冷たい舌の感覚を思いだして、なにか熱っぽいものが湧きあがっていくのを感じた。
山田はナオコのその様子に、心底後悔したように「悪い」と口にした。
「ほんとうに、悪かった。だが、止血はさせてくれ。気持ち悪いと思うが……」
「や、ちが、ちがうんです……わたしのことなんて、どうでもよくて」
「どうでもよくはないだろう」
山田は気づかわしげにナオコをみている。
「山田さんのほうが大丈夫じゃないです!」
ナオコはパニックになりながらも、山田の手をぎゅっとつかんだ。彼は硬直し、首元に残っている血のあとをみて、心底死にたいという表情をうかべた。
「そうだな。正気じゃなかった……こんなことをするなど」
後悔しはじめた山田に、ナオコが首をぶんぶんと横にふった。まだ顔が熱い。
「そうじゃなくて! 大丈夫なんですか、もう、その」
思わず彼の首に触れると、一瞬びくりとして、ナオコを見つめた。思わず見つめかえしたところで、彼との距離感がおかしくなっていることに気付いた。なんだか妙なことになってきた、と混乱状態のなかでも一番に冷静な部分が警告する。大丈夫なのか、これは。
山田が視線をそらして、せきばらいをした。わずかに耳が赤い。